寒いのは冬のせい

 兄の一声で喫茶店に出かけることになった。最近の兄のお気に入りの店らしく、どうしても一緒に行きたかったとのことだ。

 冬とはいえ日差しのある日中は暖かい。時折吹きぬける風に冬であることを思い出させるが、陽光の心地良さはそれを上回っていた。
 ここだ、と紹介された店はなるほど、兄好みの店だった。時代錯誤のような木造のドアに隔てられ、店内は静謐な空気に満ちていた。蓄音機を通して流れるクラシックも味がある。派手さはなく、むしろ地味な色合いのテーブルとイス。窓から陽光が入り店内は柔かい光にあふれていた。カウンターでは恐らく店主であろう、初老の男性がグラスを磨いていた。 
「あら、プロイセンじゃない!」
 カウンターの奥から恐らく大学生であろう女性が現れた。着飾ってこそないもののどこかきらびやかな雰囲気を纏った女性だった。大学生らしい溌剌とした明るさがそう思わせるのか、兄に向ける熱い視線がそう思わせるのか。
「最近全然来てくれないから寂しかったのよ。プロイセンはブラックでいいのよね。えーと、そちらのお兄さんは?」
 兄が気づいたように彼女に俺を紹介した。挨拶のついでに俺もブラックを注文した。兄が満足そうに「マスターの淹れるコーヒーは本当に格別なんだぜ」と片目を瞑った。
 注文を店主に伝えてからも再び戻ってきた彼女は鈴が鳴るようにころころ笑い、言葉を弾ませた。終始話しているのだが、決してかしましいとは感じなかった。ただ、兄に向ける熱い視線、上気した頬、次第に上擦る声、会話の端々から零れ出る好意の数々が俺の心を蝕んだ。いつか夢の中で感じたようにじりじりと身を焦がされる。
「いつまでも無駄口を叩いていないで、ケーキは焼けたのかい?」
 店主が二人分のコーヒーを運んできた。彼女は弾かれたようにカウンターの奥へと戻った。恐らく厨房があるのだろう。
「兄弟水入らずを邪魔してすまなかったね。ゆっくりしていってくれ」
 周囲の空気をふわりと解けさせ、店主もまたカウンターの奥へと消えた。

 広くもなく狭くもない店内に俺と兄の二人きり。BGMは昔散々聞いたクラシック。それすらも聞こえないくらい心臓の音がうるさい。むしろ心臓が痛い。一体何に緊張しているんだ。落ち着こうと吸った空気はコーヒーの香ばしさに満ちていた。カップを手に取り、コーヒーに口をつける。
「あ、美味い」
「だろ! ずっとお前を連れてきたいと思ってたんだ。一緒に来るならヴェストしかいないって思って、誰にも教えてないんだぜ」
 にひひ、と少年のように笑って兄もコーヒーを飲む。嚥下するときに動く喉仏に思わず見とれる。そんな自分に気づき慌てて視線を落とす。琥珀の中に浮かぶ影と目が合う。
「良い店だな」
 ちり、と焦げる音は聞かなかったことにする。良い店だと思ったのは事実だ。物静かで気の利く店主、華やいだ明るさの店員、柔らかい店内に美味しいコーヒー。兄の好みだと思うが、同時に俺の好みでもあるなと思った。そういうところは兄弟なのだと感じる。
「ヴェストも気に入ると思ったんだ」
 満足そうに笑った兄は、少し真剣な表情になり「ただ、無理してるだろ」と告げた。心当たりがあるが故に返答しない俺に「顔見てりゃ分かるっての。他人は誤魔化せても俺は誤魔化せねーよ」と続けた。
「何のことだ」
「それはこっちのセリフだ」
 空になったカップを置き、兄は「勘定済ませてくるから先に外出てろ」と言った。乱暴に頭を掻く横顔からは感情は読めなかった。呆れられたのか、怒っているのか、悲しんでいるのか。いずれにしても、罪悪感が疼く。

 外に出ると肌を刺すような風が吹いてきた。先ほどまでの暖かさはなく、心の中まで冷えていく寒さだった。この寒さはきっと冬のせいで、嫉妬だとか罪悪感のせいではない。と思いたい。
「待たせたな。ほら、帰るか」
 店から出てきた兄は俺を見るなり手を差し出した。どういうことだ?
「そんな顔してんじゃねーよ。大人しく手ぇ貸せ」
 兄の意図することが分からず、言われるがままに手を出す。満足気に兄は俺の手を握った。
「な、突然どうしたんだ」
「いいじゃねえか、減るもんでもねぇし」
 兄の手はやはり冷たかったが、いつもよりか心なしか熱かった。
「なあ、ヴェスト」少し前を行く兄は俺を見ずに話し出した。「昔、っつってもかなり昔だけど、俺の懐中時計が欲しいって言ってたことあったよな」
「そんなこともあったな」
 やっと思い出した。
 兄に憧れて、何でも兄の真似をしたいという時期があった。当時兄は懐中時計を持っていて、当然俺はそれも憧憬の対象だった。裏に刻印されていた兄の象徴が気高く美しかったので、手にしたかったのだ。弟として。これは後々知ったのだが、あの紋章は特注だったらしく彼と王しか持っていなかったらしい。あまりにねだる俺に兄は苦笑していた覚えがある。
「あのとき、俺が何て言ったか覚えてるか?」
「たしか、『これは俺の大事なモンだからいくら弟でもやるわけにはいかないんだ』って言われた覚えが」
「さすが、よく覚えてるな」
 兄はにやりと笑い、握っていない方の手で懐から時計を出した。幼い俺が焦がれた、まさにその時計。そういえば最近よく目にすると思っていたところだ。
「これさ、ヴェストにやるよ」
 繋いだ手は解かれ、代わりに銀時計が乗せられた。弟でもあげるわけにはいかないほど大事な時計。それをなぜ、今俺に?
「弟以上に大事な存在だからな。愛してる、ヴェスト。これからも共に生きてくれ」
 愛してる?まるでプロポーズみたいだ。恋人みたいだ。何かの冗談だろうか。だが、真剣な瞳で訴えかける兄から冗談の色は見えない。
「返事はひとつしか聞きたくないからな」
 噛みつくように唇を奪われる。親愛なんて温い感情ではなく、もっと熱を、欲を孕んだキスだった。
 兄の熱に翻弄されて距離が離れたときには、もう思考も何も追いつかなくなっていた。火照った顔に冷たい風が心地良い。唇を舐め目を細めた兄はまた俺の手を取り「時間はあるし、じっくり話でもしようぜ」と家路を急いだ。

お題:確かに恋だった

2014.07.29
14/07/29