sonet de la noche

 兄は歌が好きだった。
 俺が小さい頃からよく歌っていた。
 寝付けないと言えば子守唄を歌い、気分が良いと言っては鼻歌を奏で、神を慕い讃美歌を歌い、父を慕い父の奏でるフルートの旋律をなぞり、お前が愛しいと言って似合わない愛を歌った。少し掠れた低い声で小鳥のように歌った。一時期同居していた音楽にうるさい隣人も兄の歌だけは一目置いていた。

 二度目の大戦に敗北し、戦勝国らに俺たちは別れを余儀なくされた。俺は西、兄は東。一つの国が鉄の冷たい壁によって二つに裂かれた。別れのときも兄は歌っていたように思う。泣くでもなく、怒るでもなく、静かに口の中で神を讃えた。神の加護があるように、と願っていた。神よ、憐れみたまえと。
 それからどのくらいの期間が経ったのだろうか。
 ある日、俺と兄を隔てた壁が崩れた。
 誰にとっても、俺のとっても待ち望んでいた再会だった。
「元気にしてたか、ヴェスト」
「もちろんだ。兄さんこそ風邪なんてひいていないだろうな」
「俺様を誰だと思ってんだよ。お前の兄貴、プロイセン王国だぞ…って今は東ドイツとでも言った方がいいか?」
 にやりと意地悪く口角を上げる様は別れる前から変わらない。変わらない様子に人知れず胸を下ろす。少し心配していたのだ。二つが一つになることで、どちらかが消えてしまうことを。何の前兆もない。ようやく想い焦がれた日常が帰ってくるだけなのだと安堵していた。
「また向こうに帰るのか?」
 隔てるものは何一つない。すぐに昔のように過ごせると思っていた。
 兄は大人の顔をして、仕方ねぇだろと俺の頭を撫でた。兄が言うには一緒に過ごすには手続きが終わっていないそうだ。大人の事情だ、と苦笑した兄の顔は未だに忘れられないでいる。
「じゃあ、帰るな。俺を恋しがって泣くんじゃねーぞ」
「いつまで俺を子供扱いする気だ」
「俺から見りゃお前なんてずっと手のかかる可愛い自慢の弟だよ。あー……だからこれやるよ」
 手渡されたのは色褪せた白い封筒だった。中を見ようとしたら、やんわりと制された。
「それは今見るもんじゃねぇよ」
「なぜ今渡したんだ。後でもいいんだろう?」
「後になったら意味がなくなるかもしれないんだよ。ま、俺がそっちに戻ってくるまで預かっててくれたらいいからよ」
 詳しく語ろうとしない兄を無理に問い質すことは可能だった。ただいつになく真摯に輝く深紅の瞳に何も訊けずにいた。兄は俺が納得したと思ったようで、子供をあやすような柔らかい笑みを残して東に戻った。
 それからほぼ一年。ようやく俺と兄は――東と西は統一を果たした。ようやくあるべき姿に戻ったのだ。
 兄の引っ越しが済んで一週間ほど経って、兄は例の封筒を返してくれと告げてきた。もともと預かってくれと言われていたものだったので、俺は改めて中身を問うことなく封筒を返した。
「中は開けてないよな」
「兄さんが今は見るな、と止めたからな。一体いつその時期が来るのかと思っていたが開けはしなかった」
「それはよかった」
 見られては困るものだったのか、見てほしいものだったのか兄の表情からは読み取れなかった。どちらにせよ少し寂しそうな顔をしていたのは間違いない。ちくりと心が痛むような寂しげなものだった。俺は兄のそんな表情を見た記憶は後にも先にもなかった。
 翌朝、兄は早くから忙しなく家中を動き回っていた。本棚の本に手を伸ばしたかと思えば、首を傾げ本を元の場所に戻す。おもむろに引き出しを開けては何もせずに閉める。無意味な行動を淡々と繰り返していた。再統一直後で休まる暇もなく呼び出されていた俺は、この日も例外ではなく朝から家を空けることとなった。帰りが遅くなるかもしれないと朝食を前にして告げれば、迷惑かけて悪いなとパンに噛り付きながら兄は答えた。「兄さんとこうして朝食をとれるなら迷惑どころか感謝すべき忙しさだ」本心だった。一緒に暮らせるなら、この幸福感が続くのなら多少の雑務など取るに足らないことだった。
「じゃあ、兄さん留守は任せた」
「おう。気をつけろよ」
 行って来いと乱暴に背中を叩かれ、よろめきながら玄関を出た。朝日が眩しい。中を振り返ると、泣きだしそうに顔を歪めた兄さんと目が合った。どうしたんだと訊くより先に「時間、大丈夫なのか?」と問われた。その表情はいつもの兄さんで、さっきの表情は気のせいだったのかもしれない。さっさと行け、と告げる視線に苦笑して家を出た。
 しかし、どうにも釈然としない。何かが引っ掛かる。脳裏に焼きついた兄さんの表情が、何かを告げる。これが虫の知らせというやつなのだろうか。
 きっと杞憂に違いない。
 上司に呼び出された時間までそれほど余裕はなく、自分を無理やりに納得させることで目の前のことに集中した。呼び出された時間の5分前には到着し、細々とした手続きを無心で片づける。少しでも集中を切らすと兄が心配になり、今すぐにでも家に戻りたい衝動に駆られた。ぶるりと頭を振って再び書類に目を落とす。
 思いとは裏腹に、帰路に着いたのは日が傾き始めた頃だった。兄はまだ家にいるだろうか。もしいなかったらどうすればいい?不安が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。
「兄さん!今、帰ったぞ!」
 ようやく帰宅できた喜びと安堵で思わず声が弾む。探し人はどこにいる?出迎えてくれる筈の兄の姿は見えず、家の中は耳が痛いほどの静寂に包まれていた。普段ならば愛犬の姿も見えないことに気づいていただろうが、このときばかりは兄の姿が見えないことでひどく狼狽していた。しばらく玄関で立ち尽くしていた。何時間とも思えたし、一瞬とも感じられる時間が経って、愛犬の鳴く声が聞こえた。
「おう、早かったな」
 振り返らずとも分かる兄の声。どこに行っていたんだ、心配したじゃないか、浴びせたい言葉はたくさん浮かんだがどれも言葉にならなかった。崩れ落ちるように地面に膝をつくと言葉は嗚咽と涙に変わった。声にならない声で兄さん、と呼び続ける俺を慰めるかのように兄と愛犬たちは俺に寄り添った。
「悪い、心配かけたな」
 幼い子をあやすように抱きしめて、背中を優しく叩いた。いつの間にか小さくなった手の平は昔と同じように少し冷たかった。ヴェスト、と呼ぶ声が耳をくすぐる。
「ごめんな、ちょっと散歩してた」
「ああ」
「――ちょっとタイミング悪いけど、これ」
 かさ、と手渡されたのはいつかの白い封筒だった。
「どういうことだ?」
「そのうち分かる。だからそんな泣きそうな顔するな。俺まで泣きそうになっちまう」
 泣きそうな顔をして笑って、俺の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。

 その夜は幼い頃のように、兄の腕の中で眠った。遠のく意識の中で聞いたのはいつかと同じ子守歌だった。

 朝、目が覚めると兄はいなかった。
 家中探してもいない。愛犬たちの散歩に行ってるわけでもない。混乱する頭で思うのはただ一つ――昨日の予感が的中した――。

 俺は無意識のうちに白い封筒を開いていた。

 中には1枚の紙が入っていた。意外と几帳面な字はまさしく兄のものだ。
『俺の机の2段目の引き出し』
 宝探しか何かに興じたかったのだろうか。呆れながらも兄の軌跡をなぞる。
 引き出しを開けるとまた白い封筒があった。中には先程と全く同じように1枚の紙が入っていた。
『書庫。入って左4段目、右から5冊目』
 紙の指示の通り、書庫に向かう。少し埃っぽい書庫には兄の日記と書物が所狭しと並んでいる。入って右側には日記が、左側には書物が並べてある。紙に書いてある本は詩集のようだった。それもスペイン語。何故スペイン語の詩集があるのか。何故これを俺に見せたかったのか。疑問は次々に浮かんでくる。だが、兄のことだ。きっと何か意味があるのだろう。本を開こうとして、妙な膨らみがあることに気づいた。
 また白い封筒だった。
 栞にするかのように本に挟まっていたそれを抜き取り、そのページを開く。

Cuando yo muero
quiero tus manos en mis ojos:

 何故スペイン語なんだ。
 スペイン語の詩を読めるわけもなく、すぐに目を離した。兄の意図が分からない。本棚を背にずるずると座り込んだ。封筒の中を除くと同じように紙が入っていた。
『俺様日記1013冊目』
 ちょうど正面にある日記を抜き取る。同じように封筒が挟まっていた。
 日記の日付は第二次世界大戦の終わり頃、敗戦が濃厚になってきた頃だった。
『スペインから詩集をもらう。これが泣けるんやで、と紹介された詩を読む。覚え書きのために訳をメモしておく』
 いつの時代も変わらない几帳面な字だ。日記の続きには詩の写しと訳が並んでいた。

Cuando yo muero
quiero tus manos en mis ojos:
quiero la luz y el trigo de tus manos amadas
pasar una vex mas sobre mi su frescura:
sentir la suavidad que cambio mi destino.

もしも私が死んだら あなたの手を
私の両目の上にそっと置いてください
愛するあなたの手からこぼれる
光と小麦の粒がほしいのです
わたしに その若さを
もういちど注いでほしいのです
わたしの運命までも変えた
そのやわらかさに触れたいのです

Quiero que vivas mientras yo, dormido, te espero,
quiero que tus oidos sigan oyendo el
viento,
que huelas el aroma del mar que amamos juntos
y que sigas pisando la arena que pisamos.

わたしがこうして眠りながらあなたを待つ間も
あなたは生きていてください
その耳で 風の音を聞いていてください
ふたりとも好きだった海の香りを
感じていてください
そしてふたりで歩いた砂浜を
ずっと歩いていてください

Quiero que lo que amo siga vivo
y a ti te ame y cante sobre todas las cosas,
por eso sigue tu floreciendo, florida,

わたしが好きだったものたちが
ずっとこの世にありますように
愛したあなたが わたしにあらゆることを
歌にして歌いかけたあなたが
ずっと花咲いていられますように

para que alcances todo lo que mi amor te ordena,
para que se pasee mi sombra por tu pelo,
para que asi conozcan la razon de mi canto.

あなたがいつでも
わたしの愛に触れることができるように
わたしの影が あなたの髪を横切れるように
わたしの歌う理由があなただったと
わかってもらうために


 その日の日記はこう結ばれていた。
『いつかヴェストに届く日が来たら、哀しいようで嬉しい』
 ぽたりとインクが滲んだ。
 封筒を開くと、紙が入っていた。


ヴェストへ
 これを読んでるということは、俺は
もういないのかな。どこに行くのかは今の俺には全然想像がつかない。天国とかいう場所かな。
 詩は読んだ……よな。いい詩だろ。これをスペインから薦められたのだけは癪だけどな。
 俺が歌う理由もお前だけだったよ。俺が歌うと小さい頃から嬉しそうな顔するんだ。気づいてないと思うけど。
 存外泣き虫なお前が泣いてないか心配だ。俺がいなくったって泣くなよ。お前は生きて、ドイツを繁栄させるんだ。いいな。返事はひとつだろ?
 小鳥のようにかっこいいプロイセンより

 兄は歌が好きだった。
 その全てが自分に向けて歌われていた。
 
 神の加護がありますように。
 いつか聞いた歌が聞こえた。

M.Laurisen作曲の同題曲が好きだったので、かっとしてやった。気づいたら書き出してから2ヶ月は経ってた。

2013.03.10