気だるい平日の午後。眠りに誘わんとさえする雰囲気を俺は正直未だに甘受出来ないでいる。
今はその雰囲気に呑まれ、俺はソファーに横になる。眠りたいのではない。無気力に、憂鬱になるのだ。
手慰みにと取った雑誌の文字も上滑りした。最終的にそれは日光から横になった目を庇う役割に就いた。このまま眠れたら楽なのに、頭だけは次第覚醒していく。
──俺はこのままでいいんだろうか。
浮かんだ不安が打ち消せない。
この陽気の、怠惰な雰囲気のせいだと主張できれば楽だったのに。
日頃のふとした瞬間に感じるこの感覚が、積もりに積もって俺に牙を向く。それも紛うことなき俺自身であることは痛いほど知ってる。俺を上回るほど肥大したその思いは、いとも簡単に俺の思考を支配する。
「兄さん、今帰ったぞ」
声がした。どうやら日は暮れてしまっていたらしい。
いつもの出迎えも行く気にはなれなかった。軽い足音がいくつもしたからベルリッツ達が代わりに行ったんだろう。
足音が近づく。ああ、ヴェストだ。
「そんなところで寝ると風邪をひくといつも言っているだろう」
溜め息まじりの声。それすらも俺の涙腺を揺るがすには充分だった。何故だか俺にも分からない。
「なぁ、ヴェスト」
声は震えてなかっただろうか。今、言わないと俺の中の均衡が崩れるようだった。
空気が強張ったのを肌で感じた。やはり声は震えてたのか。
沈黙がしばらく続く。俺はヴェストの顔を見たくて雑誌を取った。澄んだ青に動揺が見てとれる。
「今、幸せか?」
口にしてから、しまったと後悔した。こんな誘導するような言い方をしようとは思ってなかった。
ヴェストは目を丸くしていた。そりゃそうだ。
何とフォローしようか。自棄になって体を起こし雑誌を放る。いつもなら即刻飛んでくる怒声も無い。余計に苦しくなる。
ヴェストは何も言わないまま俺の横に腰を下ろした。
「何故急にそんな事を訊く。何かあったのか?」
何か、ならたくさんあるさ。愛してる故に。お前の幸せを願うが故に。
「“俺が居る”今、お前は幸せか?」
俺が居ない方が良いんじゃないか?
そう聞きたかったが怖くて止めた。喉元まで出かかった自己否定は必死で抑える。
激しくやるせない。鬱々とした気持ちが襲う。
溶かしてくれよ。お願いだから。神様でも親父でもなく、お前がいいんだ。このこびりついた思いを少しでも溶かしてくれ。
「ああ、俺はまた兄さんとこの家で暮らすことが出来て幸せだ」
真っ直ぐに俺を見てヴェストが言う。嬉しいはずなのに、少しも気持ちが晴れない。
俺を巣食うその思いはそこまで大きかったのだろうか。
「俺はな」
全部言ってしまおう。
幻滅されても仕方ない。
これが俺なんだ、弟よ。
「お前がいない間ずっと考えてた。俺はもしかしたらお前の重荷に、足枷になってるんじゃないか。お前とこの家で過ごす権利は無いんじゃないか。俺も地方に下がった方がいいんじゃないか。とかな」
乾いた笑い声を上げる。
そうでもしないと涙が出そうだった。
押し黙った俺にヴェストはゆっくりと言葉を紡いだ。
「俺は兄さんを重荷や足枷だと思った事は決して無い。寧ろ支えだ、誇りだ。国としては俺はもう一人前だと自負している。しかし、俺個人としては未熟なんだ。若さ故の過ちとてある。だから俺には兄さんが必要だ。叱咤激励してくれる、そんな兄さんが。それに……その、もう既に……家族愛だとか兄弟愛だとか、超えて……あ、愛してるからな。……離れるなど考えたくもない」
耳の端を赤くしてまで紡いだ愛の言葉がじわり溶かしていく気がした。
こんな俺を支えだと、誇りだと、愛してると。
「そっか」
辛うじてそう呟くと視線を落とした。
これ以上あの澄んだ青を見てると泣きそうだった。
俺は結局不安だったんだ。こびりついた不安は俺を蝕んだ。気づけば膨れ上がっていた不安は俺を呑み込み憂鬱にさせ更なる不安を呼んだ。
たった一言。ヴェストの「愛してる」が欲しかったんだ。
自分の女々しさが情けない。あー、全く俺はなんて不甲斐ない。嘲笑を微かに漏らす。
ふと視界に入ったヴェストの瞳から涙が溢れていた。
「泣いてるのか?」
ギョッとして尋ねるとヴェストはぽかんとしていた。
「ヴェスト?」
確認するように名前を呼ぶ。
俺はなんて大馬鹿野郎なんだ。自分のことしか考えてなかった。そうだよな。普通あんな事言われたら自分が悪いと思うよな。お前なら尚更そうだよな。違うんだ、ヴェストは悪くないんだ。
「違う、これは、ただ、勝手に流れて……」
尚も溢れる涙を拭う。
勝手に流れるのは、お前が哀しいからなんだよ、ヴェスト。
「悪い。ヴェストを悲しませる気はなかったんだ。ただ、俺がいなくてもお前は幸せになるなら、俺がいないことが幸せなら、と思うと抑えられなかった」
「……そう言う兄さんの幸せって何だ?」
涙が止まったヴェストが俺に問う。あまりにも唐突だったが、好奇心の浮かぶヴェストの表情がたまらなく愛しくて頬が緩んだ。
「幸せ? そうだな。
うまい飯食って、あったけぇベッドでゆっくり眠って、そんでヴェストが幸せなら充分だ」
これは心からそう思う。
俺の幸せはヴェストの幸せありきだ。ヴェストの幸せを奪ってまで俺は幸せになりたくないし、なれない。
「俺もだよ、兄さん。だから、俺の幸せは兄さんがいないと始まらない」
直後爆発音が聞こえそうなくらい首元まで真っ赤になった。兄の、恋人の欲目でも構わない。それほど愛しかった。思いの余りヴェストに抱き着く。
「Danke Schoen」
掠れる声でそう囁いた。聞こえてなくても構わなかった。
俺はなんて幸せ者なんだろう。ヴェスト、お前は本当にすごいよ。俺に長い間巣食ってた不安も一発で溶かしちまう。ありがとう。愛してる。
言葉にしたら泣いてるのがバレそうで俺はただ力一杯ヴェストを抱き締めた。俺の気持ちが少しでも伝わってればいい。
名残惜しいがそっと腕をほどいた。それでも尚収まらない言葉を吐いて。
「まぁ……、何だな。俺も愛してるよ」
真剣なトーンだったからか、またヴェストは赤面した。閉じ込めたいくらい可愛い。
顔を近づけると少し丸くなった目と視線が絡む。深く口付ると、睨み付けられた。少し潤んだ目で睨まれても威圧感は無い。
さっきの不安はどこかへ消えたようだ。呆れたようなヴェストに堪らなく愛しくて愛を吐いた。
「Ich liebe dich」
わざとらしいほどの甘い声が出た。恍惚とした色が揺れる瞳に目眩がした。
「なぁ、兄さん。俺は幸せだ。今も、これからも、だ」
甘えるような声で言われてしまい、嬉しさに頬を緩ませるとヴェストも嬉しそうに笑った。
簡単に夕食を済ますと、星を見ようと庭に誘われた。夜の冷えきった空気に身震いをした。毛布にくるまっていても寒いものは寒い。
「今夜はちょうど新月なんだな」
満天の夜空はまるでプラネタリウムのようだった。
「綺麗だな」
「久々に見たぜ。こんな満天の星空なんてのは」
「俺はな、」
「うん?」
「こういう景色を共有したいと一番に思うのは兄さんなんだ。同じ目線で同じものを見たかった、昔から。だから今こうしているのも、幸せかもしれんな」
なんて愛しい。頬が緩むのを、顔が火照るのを抑えられない。
毛布ごとヴェストを包む。身長が負けてるのがこういう時は不服だが。
「なんでお前はそんなに嬉しいことを言ってくれるんだよ」
夜空をバックに見る青はゆらゆらと煌めいていて吸い込まれそうだった。
辺りを包む甘い雰囲気も相まって俺は欲情した。
「ヴェスト、俺の幸せにはやっぱりお前とのセックスも加えてくれ」
ニッと歯を見せるとヴェストが盛大に溜め息を吐いた。
「情緒も無いのか、あなたは」
それでも満更でもなさそうな表情に俺は追い討ちをかける。
ヴェストの瞳に微かに見え始めた情欲が俺をそそる。どこの誰よりも色っぽく見えるのは俺だけであって欲しい。
「愛し合うためのセックスだぜ? 情緒は無くとも愛はある」
胸を張って言うと、ヴェストは抵抗を諦めた。
大体ヴェストが本気で俺に抵抗するなら息の根を止めるくらいじゃないと、俺はそうそう止まらない。世話焼きなヴェストはなんだかんだで俺の我が儘も聞いてくれる。
「うまい飯食って、温かいベッドで寝て、ヴェストとセックスもして、そんで、スゲーキレイなもんを共有する。あとヴェストも幸せなら、俺様はこの上なく果報者だな!」
セックスだけが愛じゃないことくらい百も承知だけど。
ヴェストははにかんで珍しく俺にキスをした。
それだけでも充分幸せだ。冷えきったヴェストの右手と左手を絡める。家の中、更に言えば寝室を目指して足を踏み出した。
ヴェストの体温を感じて、俺はこれからあの怠惰な平日の午後さえも甘受できそうな気がした。
プロイセン視点。