夕焼けの赤が紫に、そして夜の濃紺に少しずつ色を変えていく様が好きだ。
けれど俺はちょうど一人だったから、それを口にするでもなく、ただ家路を急いだ。その景色を共有したかった恋しい人は、きっと俺の帰りを待ってくれていることだろうから。
「兄さん、今帰ったぞ」
玄関を開けるがいつもの煩わしいほどの出迎えが無い。代わりとでも言うように三匹の愛犬達が迎えてくれた。やけに静かな家に首を傾げつつ家の奥へ足を進める。
明るいダイニングに足を踏み入れて、ようやくその謎が解けた。
「そんなところで寝ると風邪をひくといつも言っているだろう」
兄さんは雑誌で顔を覆ってソファーに仰向けで寝ていた。思わず溜め息が漏れる。
無いよりはいいだろうと思い、着ていた上着をかけようと脱いだ。
「なぁ、ヴェスト」
途端、兄さんが口を開いた。
てっきり眠っているものだと思っていたがそうではなかったらしい。俺は脱いだ上着を手にしたまま固まってしまった。返事しようにも、兄さんの声音がそれを許さなかった。それほどらしくなく思い詰めたものだった。
兄さんは顔を覆っていた雑誌を取り、真っ直ぐ俺を見た。ひどく鈍い輝きをたたえた赤い瞳からは何も読み取れない。
「今、幸せか?」
唐突な質問に答えあぐねているうちに、兄さんは気だるげに体を起こし雑誌を床に放った。いつもなら散らかすなと叱咤するところだが、何も言わずにそれを一瞥することしか叶わなかった。俺は質問の真意が掴めないまま、兄さんの隣の空いたスペースに腰を下ろした。
「何故急にそんな事を訊く。何かあったのか?」
内政に問題でもあったかと、最近聞いた上司からの情報を頭の中で挙げてみたが、これといって兄さんをここまでにするような大きな問題は無いように思われた。
だったら個人の方か。しかし、ちらりと盗み見た横顔からは何も窺えない。
「“俺が居る”今、お前は幸せか?」
その問いは言外に「俺が居ない方が良いんじゃないか?」と問うているようだ。
鈍く光る赤い瞳には憂いが揺らいでいた。痛々しいほどまでのそれに居たたまれない気持ちに襲われた。
「ああ、俺はまた兄さんとこの家で暮らすことが出来て幸せだ」
兄さんの瞳を見据えて言ったものの少しも晴れない兄さんの表情に俺は自責の念に覚えた。
元来俺は感情をはっきりと表現できない性格だから、兄さんはそれで自信を失くしたのかもしれない。あれだけ気丈な兄さんをここまで深刻にさせるほどだ。余程のしこりがあるんだろう。それは日常の積み重ねか何なのか。どちらにせよ素直になれない自分に非があるように思われて情けなくなる。
「俺はな」
ぽつりと兄さんが零した。
俺の予想に反して、弱りきったというよりも寧ろはっきりと意志を持った声だった。
「お前がいない間ずっと考えてた。俺はもしかしたらお前の重荷に、足枷になってるんじゃないか。お前とこの家で過ごす権利は無いんじゃないか。俺も地方に下がった方がいいんじゃないか。とかな」
乾いた笑い声を上げる。切なさを伴ったそれは静寂な空間に反響した。
言葉を切った兄さんに俺は慎重に言葉を選ぶ。
「俺は兄さんを重荷や足枷だと思った事は決して無い。寧ろ支えだ、誇りだ。国としては俺はもう一人前だと自負している。しかし、俺個人としては未熟なんだ。若さ故の過ちとてある。だから俺には兄さんが必要だ。叱咤激励してくれる、そんな兄さんが。それに……その、もう既に……家族愛だとか兄弟愛だとか、超えて……あ、愛してるからな。……離れるなど考えたくもない」
慣れないことを言ったせいか手のひらにじわりと汗をかいていた。兄さんの反応を見るのは恐ろしかったが、ここで向き合わないと兄さんが遠くなる気がした。
「そっか」
一言呟くと兄さんは俯いてしまった。
気分を害してしまったのだろうか。どう声を掛けて良いのか惑う。狼狽える俺は兄さんが微かに震えていることに気づくのに時間がかかった。
「泣いてるのか?」
尋ねたのは俺ではなく、兄さんだった。
兄さんは俺を驚いたように見ていた。目を丸くした兄さんの瞳にもうっすら涙が浮かんでいたように見えた。
「ヴェスト?」
兄さんが確認するように俺を呼ぶ。そこで俺は頬を伝う温かいものを認めた。
どうやら本当に泣いていたらしい。
「違う、これは、ただ、勝手に流れて……」
しどろもどろに言葉を継ぐ俺の目尻を兄さんはそっと拭った。
「悪い。ヴェストを悲しませる気はなかったんだ。ただ、俺がいなくてもお前は幸せになるなら、俺がいないことが幸せなら、と思うと抑えられなかった」
申し訳なさそうに項垂れる様に心がチクリと痛んだ。こんな顔をさせたのは間違いなく俺のせいだ。
しかし思いに反して頭をもたげた疑問を俺は好奇心にたえかねて口にした。
「……そう言う兄さんの幸せって何だ?」
驚いた表情が次第に柔らかいものに変わった。心なしか俺の気分も和らいだ。
「幸せ? そうだな。うまい飯食って、あったけぇベッドでゆっくり眠って、そんでヴェストが幸せなら充分だ」
「俺もだよ、兄さん。だから、俺の幸せは兄さんがいないと始まらない」
言ってから急に羞恥心に襲われた。兄さんが意気消沈しているからつい慣れないことをしたが、恥ずかしいのは恥ずかしいのだ。つい、と顔を背けた瞬間兄さんが俺に抱きついた。
腕が微かに震えていた。二人とも無言のまましばらく時間が流れた。寧ろ言葉なんて要らないと感じられた。
「Danke Schoen」
兄さんが俺に抱きついた瞬間微かに聞こえた息の音は、そう言っていたように思われた。何に対しての感謝だったのだろう。
刹那とも永遠とも感じられる静寂の後、兄さんは腕を離した。
「まぁ……、何だな。俺も愛してるよ、ヴェスト」
さらりと真顔で言われ、思わず俺が赤面してしまった。端正な顔が近づいたかと思うと、深く口付けられた。
解放されるや否や突然の事に非難がましく睨み付けるも、先程とはうってかわって飄々とした様子に些か毒気を抜かれた。兄さんは慈愛に満ちた笑みを浮かべ、再度愛の言葉を吐いた。
「Ich liebe dich」
砂糖のように甘い声音に俺はただただ酔いしれるしかない。
普段は人を食った笑みを浮かべる兄さんが俺だけに見せる聖母のように穏やかで美しい微笑が、世界中の菓子を集めても敵わないだろう甘い声が、俺は好きだ。その甘美な雰囲気に陶酔してしまう。もっと、と欲してしまう。
「なぁ、兄さん。俺は幸せだ。今も、これからも、だ」
少しだけ甘えるように言うと兄さんは嬉しそうに顔を綻ばせた。それは俺の一番好きな表情だったし、いつも通りになってくれたのでひどく安堵した。俺の心に自責という引っ掻き傷をつけたが、自戒として銘じておこう。
簡単に夕食を済ませて、俺は兄さんに星を見ようと庭に誘った。夜の冷えきった空気は肌を刺したが、同時に背筋が伸びる思いがした。
「今夜はちょうど新月なんだな」
俺と同じように毛布にくるまった兄さんがしみじみと息を吐いた。
砂糖をまぶしたような星空に俺も兄さんも嘆息を漏らした。
家々の灯りも相まって現実離れした幻想的な世界に、俺達二人だけで佇んでいる心地がした。兄さんがいればどこへでも行ける。そう思ったことは言わないようにしよう。
「綺麗だな」
「久々に見たぜ。こんな満天の星空なんてのは」
「俺はな、」
「うん?」
「こういう景色を共有したいと一番に思うのは兄さんなんだ。同じ目線で同じものを見たかった、昔から。だから今こうしているのも、幸せかもしれんな」
ガバッと毛布に、兄さんの腕に包まれた。人肌の温度が心地良い。
至近距離に見る兄さんの頬は心なしか赤く染まって見えた。
「なんでお前はそんなに嬉しいことを言ってくれるんだよ」
俺を見る瞳に星が映っていた。暗闇のせいで綺麗には見えない俺の好きな赤は、星の輝きを揺らした。
「ヴェスト、俺の幸せにはやっぱりお前とのセックスも加えてくれ」
悪戯っぽく微笑んだ兄さんに俺は溜め息を禁じ得なかった。
「情緒も無いのか、兄さんは」
「愛し合うためのセックスだぜ? 情緒は無くとも愛はある」
そう胸を張ったので、抵抗は諦めることにした。自信たっぷりな兄さんを説き伏せるのは至難の業だ。それにこの手の話題で兄さんに流されなかったことなど無い。鉄拳制裁以外手に負えないことは重々承知していた。
「うまい飯食って、温かいベッドで寝て、ヴェストとセックスもして、そんで、スゲーキレイなもんを共有する。あとヴェストも幸せなら、俺様はこの上なく果報者だな!」
さりげなく足されたものに胸が温かくなる。口にする代わりに珍しく俺の方から、恥ずかしいのだが、キスをした。
兄さんは満足そうに笑い、体を離して俺の手を取った。自然と絡められた指に笑みが零れる。
美味しい食事を摂る。温かいベッドで眠る。感動したもの、景色を大切な人と共有する。その人を愛し、愛される。その上、その人が幸せであると言う。
確かにこれ以上の幸せはないのかもしれない。
俺は少し前を歩く兄さんの背にこっそり、愛してると唱えた。
ほのぼのを書こうとしたはずがシリアスになり甘くなったといういわくの作品。書いた本人さえ何故こうなったか分かってない。
しかし色気は無い。