あ、ヤバい。
そう思った瞬間、視界がぐらついた。
そこは元軍事国家。倒れるすんでのところで体勢を戻す。
早足で冬が近づいているらしくここ数日冷え込みが厳しかった。たかが冷えたくらいで風邪をひく俺様じゃないが、ここ数日は生活リズムが狂っていたのも相まって体調を崩したらしい。自己分析を終え、俺は鼻を啜る。今回の風邪は鼻風邪のようだ。
幸い、弟は仕事で家を空けている。この程度の風邪ならしばらく寝れば治るだろう。弟に風邪を移す訳にもいかない。さらに元軍事国家の、何より兄のプライドとしては風邪で弱っているなど知られたくない。
悶々と考えたが、俺はひとまず体を温めるためココアを淹れた。甘みが体に染みわたり、えもいわれぬ幸福感に浸る。
先刻より朦朧としてきた気がするが気にしないことにしよう。
「兄さん、ただいま」
玄関から弟の声がする。時計を見ると既に17時を回っていた。
「おかえり、ヴェスト」
俺が出迎えると、ヴェストはじっと俺を見つめた。何かあったかと問うと静かに首を振った。
「悪いんだが、俺様ちょっと寝てくるぜ。晩飯頼むな」
「了解した。最近遅くまで作業してるだろう? 無理しないでくれ」
「おう、俺様は強ぇから心配には及ばねぇよ」
口では強がるが、体調はすこぶる悪い。次第に悪化しているようだ。熱まであるんじゃないか?
「夕飯が出来たら起こすから」
「Danke.助かるぜ」
ヴェストと目を合わせられなかった。合わせれば、聡い弟のことだ、俺様の風邪なんて見抜いてしまうだろう。それは俺のプライドにも関わる。半ば逃げるように俺は寝室に飛び込んだ。清潔なシーツの温かさは俺をすぐ眠らせるには充分だった。
「兄さん、夕飯が出来たぞ」
「ん、今行く」
弟の声に起こされて俺は伸びをした。時計を見ると針は一周もしていなかった。
ぐずつく鼻をかんで部屋のドアを開けた。
いつも通り弟の手料理の並ぶ食卓。幸か不幸か俺の食欲は衰えを知らないようだ。腹が減っては戦はできぬ、腹が減っては治るもんも治らねぇよな、と一人でうんうんと頷いた。
「――い」
「は? 何か言ったか?」
「目が赤いと言ったんだ」
苦い顔をする弟に俺ははて、と首を傾げた。
「俺様の目の色は今も昔も赤だぜ?」
何を今更、と思った。しかし弟は首を振って否定した。ますます俺は首を傾げるばかりだ。
「瞳の色ではない。そうじゃないんだ。……兄さん、本当に無理してないんだろうな」
この質問に思わず言葉を詰まらせた。
「な、何言ってやがる。俺様が無理するはず──」
ないだろう? と強がる言葉は、切迫した風の弟に遮られた。
「無理してるじゃないか、現に。俺が気づかないとでも思ったか? 目は赤く潤んでるし、さっきから鼻をよく啜ってる。どう考えたって風邪をひいてるとしか思えない。どうして兄さんはいつもこの俺のことばかり優先して自分のことは顧みないんだ。もう少し自分の体を労ってくれ」
早口で捲し立てる弟に唖然とするしかなかった。
そうか、もうバレてたのか。俺がヴェストの不調にいち早く気づくようにヴェストも俺の不調に気づくのか。
「無理しなくていい。お願いだから安静にしていてくれ」
「分かったよ」
俺のちゃちなプライド云々よりも可愛い弟だ。こうも懇願されると聞かざるを得ない。それに風邪を移す訳にはいかない。
「お兄ちゃんは大人しく寝るとしますか」
そういって席を立つとヴェストはあからさまにホッとした。
なんだかこそばゆい気持ちになって、少し悔しかったからヴェストの頭を乱暴に撫でた。
「な、何をする!」
「余計な気ィ回すなよ。お前に風邪移す訳にはいかないからな」
鼻を啜りながら言っても説得力ないなぁと苦笑した。同じことを思ってたらしく、風邪ひいてる兄さんに言われてもなと笑われた。
「兄さん、」
「大人しく寝るから安心しろって」
少し弟がムッとした顔になった。
「早く元気になるまじないだ」
チュッと音を立てて俺の目尻にキスをした。俺がいつもヴェストにしてきたおまじない。まさか俺がされようとは。
耳まで真っ赤になったヴェストが心底可愛らしかった。不謹慎にも高ぶる情欲を抑えて俺はヴェストの額に口づけた。
「普通逆だ、兄さん」
真っ赤な顔のままヴェストは俺がしたように額に唇を落とす。
「……それに立ったままというのも変だがな」
羞恥に堪えかねたのか、ふいと顔を背けた。
それでも俺は、弟の唇がGuten Nachtと動いたのを知っている。
風邪も明日の朝には治るだろう。
根拠の無い自信を抱いて俺様は幸せな眠りについた。
風邪ひき普は珍しいんじゃないかと勝手に思っている。兄が弟の不調にいち早く気づくように、弟も兄の不調にいち早く気づくといい。