幼かった俺に剣術を教えたのは、戦いとは何たるかを説うたのは紛れもなく、軍国プロイセンだった。
俺には兄と呼ぶべき人物が他の国家よりも多いと思う。しかし俺の実感としては、何世紀もの間同じ家で生活してきたプロイセンこそが俺の兄なのだ。かつての居候は、彼に対してひどく辛口だったが。
あんなに大きく見えた兄さんの背に追いついた頃、俺はある戦争で指揮を執ることになった。
責任感と不安の重圧に耐えかねて、俺は兄さんの部屋へ駆け込んだ。
「兄さん」
「どうした?」
あの時の兄さんの顔はきっとこれからも忘れないだろう。俺がこうして駆け込んでくることを予想していたかのように不敵な笑みだった。それはまるで、土煙の中勝利を確信した時に浮かべるようなもので。俺は我が兄ながら恐ろしかった。
怖じ気づいて震える拳を固く握って、俺は兄さんに向き直った。
「今度の戦争のことだ。何故俺に指揮を任せた? 俺はまだ指揮官としても兄さんの足元にも及ばないんだぞ」
「なぁ、ヴェスト。お前、この戦争勝ちたいと思うか?」
何故そんなことを?
当時は全く兄さんの意図が理解出来なかった。
今は分かる。しかし俺だったらあそこまで賭けには出れないだろう。
「……ああ、当然だ。ここで敗れればこのドイツ自体が揺らぐだろう戦争だ」
「それでいい」
そう言ってふっと笑った顔に少なからず俺は安堵した。と同時に混乱もしていた。
「ヴェスト、実戦は何よりの訓練だ。不安なのは分かる。マニュアルにばっかり頼っちゃいけねぇぜ。やってみなきゃ分からねぇよ」
「だが、兄さん……」
「勝つ意志があるならそれ以上のもんは要らねぇ」
「兄さん!」
俺はたまらず兄さんに近づき、机を叩いた。
少々驚いた様子だったが、背もたれに深く寄りかかり呆れたように息をついた。
それを見て、俺は兄さんに幻滅されたのかと気が遠くなる思いだった。
しかし、兄さんは一言も発しなかった。自分のはやる心音しか聞こえない静寂が怖くて俺は思わず兄さんを呼んだ。
「……兄さん」
その時俺は情けない顔をしていたに違いない。なぜなら兄さんは困ったように眉を下げたから。
「あのなぁ、ヴェスト。不安に思うのはよく分かる。本当に手に取るように分かる。俺も同じ思いをしたことがあるからな。でもな、指揮官がそんなことじゃいけねぇぜ。
いいか? よく覚えとけ。兵士達は指揮官を頼る。その指揮官が不安そうにしてみろ。その不安は兵士に伝染して勝てるもんも勝てなくなっちまう。……と、ここまでで何かあるか?」
「いや、兄さんの言うことはもっともだ。それに……俺も兄さんが勝利のみを信じて駆けていく姿に勇気づけられていたからな」
俺がそう言うと兄さんは満足気に笑った。
「そう、それだよ。どんなに言葉を尽くしても不安は完全に拭えないもんだ。言葉通りになるとは限らない。そう思うからな」
「行動で示せ、と?」
「そうだ。男なら背中で語らないとな!」
この話は終わりだと言わんばかりに立ち上がり、兄さんは俺の背中を思い切り叩いた。
その戦争で、ドイツ軍が勝利を収めたのは言うまでもないだろう。勿論指揮は俺が執った。兄さんはというと俺の支えとなってくれた。あれほど心強いものはなかった。
「──なぁ、兄さん覚えているか? 俺が初めて戦争で指揮を執ることになった時のこと」
リビングでテレビを観る背中に語りかける。ここからは兄さんの表情は読み取れない。
「なんだ、そんな昔話持ち出して。俺様がそんな大事なこと忘れる訳ないだろ」
「では、俺に言ったこと覚えているか? 兵士達は指揮官を頼る。どんなに言葉を尽くしても不安は完全に拭えない。だから──」
「ヴェスト!」
急に兄さんの叫びに言葉を遮られる。何かしただろうかと思い兄さんの顔色を窺おうとすると、頭を乱暴に撫でられた。
「……バカ野郎。恥ずかしいから、そんな話持ち出すんじゃねぇよ」
ちらと兄さんを見やると僅かに赤くなっていた。
兄さんが照れるなんて珍しい。よほどあの時はらしくないことをしたらしい。
「すまない。以後気を付けよう」
「……そうしてくれ」
拗ねたように唇を尖らせた兄さんはあの頃と比べるとすっかり丸くなってしまった。それでも兄であることは全く変わらないのだが。
兄さんはもうこの話はしたくないらしく一切こちらを向こうとはしなかった。だからこっそり心の中で兄さんに感謝した。
兄さん、あの戦争で本当は自分で指揮を執りたかったんだろう? あの戦争はそれほど重要だった。
けれどもそこで俺に指揮を執らせることが、俺にとって最善だと考えたんだろう? あえてあの時だったのは負けても仕方ない、で済ませない戦争を選んだから。俺に指揮官とはかくあるべきだと説うたのも、全て兄さんの想定内だということだ。俺が理由を問い詰めに来ることも勿論。
あの時は理解出来なかったが、今は分かる。兄さんは未来のために賭けに出たんだ。今後ドイツが強国であるために、プロイセンに頼らないように。
賭けは見事成功だったというわけか、兄さん。俺は感謝しているよ。全て兄さんの計画のうちかと思うとまだまだ敵わないが、それでもあの戦争がなかったら俺はこうしていられなかった気がするんだ。
あなたは照れて聞いてくれないだろうが、感謝している。
「兄さん、」
「なんだ?」
「Danke Schön」
「どうしたんだよ、急に。あー、なんだ……Bitte」
あなたの弟で良かったよ、俺は。
お題:確かに恋だった
再統一記念日、ということで東西。ドイツが兄さん兄さん呼びすぎた。
何はともあれ、東西に幸あらんことを。