目覚めた時から感じていた喉の違和感。
違和感が確実になったのは朝食を作り終え、兄さんを起こしに行った時だった。
「───」
声が出ない。
掠れて音にならない息がただただ漏れるのみだ。辛うじて囁くような声は出るが、あまり話すと本格的に声が出なくなりそうなのでやめた。
ああ、喉に感じた違和感の正体はこれだったか。
一人で納得していたが、兄さんを早く起こさないと朝食が冷めてしまう。
心の内で詫びてから、少々手荒な方法で兄さんを起こす。揺すった程度で兄さんが目覚めないのは既知であるので、そのシーツを一気に剥ぎ取った。
「っくしょい!」
盛大にくしゃみをして兄さんは飛び起きた。
……さぞや寝覚めは最悪だろう。
もう一度心の中で詫びを入れる。
兄さんは一瞬何が起きたか把握できなかったらしく辺りを見渡していた。俺の姿を確認すると不満げに口を尖らせた。
「Morgen……、もう少し優しく起こしてくれたっていいんじゃねぇの?」
開口一番はどんな状況でも挨拶であるということに胸が少し温かくなった。さすが俺の兄さん。
だが、俺は声が出ない。
返事も反論も弁解も何一つ出来やしない。
一言も発しない俺をさすがに怪しく思ったのか、心配するように兄さんが顔を覗き込んできた。
『すまない。声が出ない』
文明の利器とは素晴らしいもので、俺は持っていた携帯電話を使って何とか兄さんに状況を伝えることが出来た。
兄さんはそれを三度も読んでから目を丸くした。
「え、マジ? 声出ねぇの?」
こくりと頷くと兄さんは項垂れた。
「今日、仕事は?」
何故そのようなことを訊くんだ、と不思議に思ったが、また携帯電話を使って返した。
『ある。だが、元々自宅でする予定だったので支障は無いだろう』
「そっか」
安心したように息をつくと、兄さんは乱暴に俺の頭を撫でた。
「朝飯出来たんだろ? 早く食おうぜ」
顔くらい洗ってきてくれ、と言おうとしたが、やはり声にならない。自分に腹が立つ。
俺の考えることなんて分かってる、とでも言うように、兄さんはニッと笑って洗面所へ向かった。
分かってるなら毎朝自分で行ってくれればいいんだが。
声が出ないという状況は想像以上に辛い。やきもきする。
それに喉も痛むのだ。まさしく踏んだり蹴ったりだ。
「ヴェスト、」
朝食を食べ終えると不意に兄さんが俺を呼んだ。
名前を呼ばれる度に震えない喉を恨めしく思う。
今の俺はそれに応えることも叶わないのだ。悔しくて自分の喉を掻きむしりたい衝動に駆られる。
「心当たりないのか?」
喉元に伸ばした手を止めて思案する。
正直言えば喉の違和感は昨日からあったものだ。と、いうことはその前日に原因があり、その日はいつもより大きな会議があった。
原因はそれか。
思い至ると頭を抱えたくなった。
ちょうど新聞とペンがあったので、隙間に書き走った。
『一昨日の会議』
兄さんはそれを見て瞬時に悟ったらしい。
苦り切った笑みを浮かべ、頭を描いた。
「その会議って結構な人数が集まったやつだろ? 無理すんなって言ったじゃねぇか」
『すまない』
「謝る必要はねぇよ。ただ……」
言葉の続きが推し量れない。首を傾げると兄さんは目を細めて俺の頭を撫でた。
「お前の声が聞けないのは辛いな」
真摯なその緋色の瞳に吸い込まれそうになる。あまりにも真剣で、目を逸らせない。
今すぐ話したい。文字でしか伝えられないこの状況が辛い。目の前にいるのに、自分の言葉で、声で伝えられないのが辛い。
人魚姫はこのような気持ちだったのだろうか、と思った。
声を失う泡沫
(明日になれば)
(貴方と話せるだろうか)
あんなにがなって喉は大丈夫なんだろうかとよく心配になる。