「政宗様」
揚々と自分の前を歩く主を小十郎は顔を顰めて呼んだ。しかし聞こえるか聞こえないかほどの声量。小十郎には主を振り向かせるつもりは毛頭なかった。
「政宗様」
もう一度だけそっと呼んだ。名を呼ぶだけで胸が締め付けられる。
小十郎は胸の痛みに顔を歪ませ、ひゅっと息を吸った。
本来ならば抱く筈の無い恋慕を、こともあろうか己の主に抱き、挙げ句その体温に触れたいとまで願うようになってしまった。顔を痛みに歪めてもその声音がどこまでも甘いことを小十郎は自覚していた。
「──郎、」
眉根を寄せたまま、胸の痛みを押し殺す。悟られてはならない。所詮不毛な想い。
小十郎はきりきりと絞めるような痛みを抱えながらも主君に害が及ばぬならば、と不毛な恋情を墓まで抱えていくつもりだった。主君を護り散るも、天下取りを見届け大往生するも、どちらでもいい。ただ己は伊達の繁栄を願うのみ、と。
「小十郎!聞いてんのか?」
はた、と小十郎は現実にかえる。前を歩いていたはずの政宗は自分を怪訝そうに見つめていた。
上の空だったせいで竜の逆鱗に触れたかとも小十郎は焦ったが、表情から察するに怒ってはいないらしい。幼少の頃を彷彿とさせる様子で首を傾げていた。
「申し訳ありません。如何なされましたか」
「如何も何も…、呼んだだろ?オレを」
聞こえていたのか。小十郎は政宗の耳の良さに舌を巻いた。恐らくはその隻眼によって失われた視覚を補う為だろう。それでも聞こえないと思っていたのに。
「オレを、そんな声で呼ばないでくれ」
政宗の声は微かに震えていた。顔を伏せて呟くから、その長い前髪で表情は窺えない。
それでもその震える声が自分の胸の痛みに共鳴するように響くので、小十郎は唇を噛んだ。
「期待するだろうが」
何を、とは小十郎には訊けなかった。政宗は返事をしない小十郎に嘆くように畳み掛けた。
「そんな、切ない声でオレを呼ぶなよ。勘違いするだろ。期待、しちまうだろ。お前がオレを、好いてるかもしれない、なんて。……思っちまうだろうが」
震える声で零した言葉を訂正もせず、繕いもせず、政宗は逃げるように踵を返した。
「政宗様!」
穴があったら入りたい。政宗は呼び止められるのを知りながらなお進んだ。
政宗とて想いを告げるのは本意ではなかった。真面目すぎる忠臣は主人の想いを無下にはできずに悩むだろうと思ってのことだった。気の迷いだと、勘違いだと日々自分に言い聞かせていたのに、その相手があまりにも甘く切ない声で自分を呼ぶから。
「お待ちくだされ、政宗様」
政宗は小十郎に手首を掴まれた。振りほどこうにも思いの外力が強く、それは叶わなかった。
「そこまで言っておいて逃げずともよいものを」
「Ha?何言ってんだよ、jokeだよjoke」
嗚呼、またこのお人の悪い癖だ。視線を合わせず自嘲気味な笑みを浮かべ軽口を叩く政宗に小十郎は胸が痛んだ。
拒絶を恐れ、本音をも慌てて冗談に変える。いつの間に染み付いてしまったのだろう。
「政宗様の独断のみで判断なさるな。人の話は最後まで聞くものだ」
目を見据えて告げられた言葉に政宗は期待を抱いた。これが夢でも、それはそれでありかもしれない。現実で無理でも夢ならば。
「この小十郎、あなた様が思っている以上に慕っております」
「I beg your pardon?」
「異国語は理解しかねまする」
「Once more……、もう一度言ってくれ、小十郎」
「仰せのままに。俺もあなたを好いております」
自分の独り善がりではなかった。政宗は胸を撫でおろした。
嗚呼、でもどうしようか。こんなにすんなり受け入れられるなんて夢でない限り有り得ないと思っていた。
「…良かった」
思うより先に体が動いていた。政宗は今にも泣きそう顔で小十郎を抱き締めた。
「政宗様?」
「何も言うな、小十郎」
痛いほど抱き締める政宗を抱き締め返すか小十郎は躊躇った。しばし宙を彷徨った手は結局主人の背に回った。
男子たる者、易々と涙を流してはいけない──幼少のみぎりより口煩く言われ続けたその言葉を思い出し、政宗は抱き締めた愛しい人の肩口で必死に泣くまいとしていた。背中に回された手の温かさにどうしようもないくらい胸を掻き乱されて、涙がその隻眼ぎりぎりまで溜まっているのが自分で分かった。
「報われねぇと覚悟してたんだがな」
「……同じく」
「まだ夢かと疑うオレがいる」
「夢ならば共に同じ夢を見てるのでしょう」
「……All right.それは嬉しい言葉じゃねぇか」
政宗はふっと抱き締めていた力を抜いた。不安で見れなかった小十郎と向き合った。小十郎の普段の冷静さが消えた表情にますます愛しさが込み上げてきた。
「Shit、これは反則だろ…」
「何がですか」
「You're so cute」
そんな顔は反則だ。放せと言われても手放せなくなっちまった。元より竜がその右目を手放すなど有り得ないのだが。
政宗の胸中も知る由もなく、小十郎は政宗の言葉に首を傾げるしかなかった。
「Ah…I really need you and love you」
「ですから異国語は──」
理解しかねます、という言葉は発せられることなく、小十郎の口は政宗のそれで塞がれた。
「小十郎、お前はオレの、独眼竜の右目だ。お前が嫌だと言っても手放さねぇ、you see?」
「勿論、とうに覚悟はできております」
小十郎の返事に政宗は満足げに口角を上げた。
「Ah……さて、溜まった書類でも片付けるかな」
「それは、殊勝な心掛けですな」
照れ隠しに呟いた政宗に小十郎も応じた。
急な変化に戸惑っているのは自分だけじゃないのかと二人して笑い合った。
甘い話を書こうとした結果。