青は世界一遠い色。手を伸ばしてもその色は掴めなかった。
では、今、手にしたこの色はいったい何色なのだろうか。
「おは4-6-3のゲッツー!」
朝から十四松の元気な声が響きわたる。
「十四松のやつ、朝から元気だな」
十四松の声で起きたおそ松がげんなりした様子で呟く。のそりと布団を抜け、おそ松は髪の跳ね上がった後頭部を乱暴に掻いた。
「俺ら以外誰もいねーし、さっさと下りてメシ食おうぜ、一松」
「そだね」
欠伸をひとつ噛み殺し、一松は言葉を返した。
「フッ、遅かったな、寝坊助たち」
おそ松と一松が卓袱台を囲む兄弟の間に割り込むように腰を下ろすと、カラ松はパチンと指を鳴らす。こっちも朝から元気だな。一松が思ったことと一言一句同じ言葉がおそ松の口から聞こえた。
十四松のおかげで賑々しい食卓の陰で、トド松の向こうでおそ松はおもむろに口を開いた。
「一松、やっぱりお前変わったよな」
「は?」
「え、お前自覚ないの?――あ、チョロ松醤油取って」目玉焼きに醤油を垂らした手が止まる。「なあ、トド松はどう思う?」と醤油差しを渡した。
「げ、どうしてそこで僕に話を振るわけ?」
トド松は「勘弁してよね」と文句を言いながら、おそ松と同じ動きで醤油差しを一松に差し出す。
「ま、おそ松兄さんの言うことに同感だけどね。一回鏡見た方がいいよ、一松兄さん」
二人の言うことが呑み込めないまま、一松は手元に回ってきた醤油差しを見つめた。
鏡? 俺の顔に何か付いているんだろうか。
寝起きでうまく働かない脳みそをフル回転させても何も思いつかない。
「あらら、これは全く心当たりがない顔ですなあ。なぁ、トド松くん?」
「全くです、おそ松博士。我々はとんでもない発見をしてしまったようです」
にやにやと目を細める同じ顔に、一松はむっとした。一体朝からなんだというのだ。
「二人してそんな顔で見んなよ」
「おお、怖い怖い。そんな睨むなって。バカにしてるわけじゃねえよ」とおそ松が両手を小さく挙げる。
「バカにはしてなくても、からかってはいるよね」
「トド松、おまえ急に裏切るなよ!」
「いや、二人とも同罪だし。おんなじことしてるわけだし」
「そんな身も蓋もないこと言うなよ、一松くん」おそ松がねっとりと甘い声を出す。「話題に置いていかれてさびしいって顔に書いてあるよ〜?」
「おそ松兄さんって、人の神経を逆撫でする天才だよね」
おそ松を切り離し、傍観者の位置に戻ったトド松を押しのけ、おそ松が身を乗り出す。
「一松、ほんっとにお前自覚ねえの?」
「あるわけないじゃん。どっかの誰かと違って鏡を見る習慣も皆無なんだし」
トド松の言葉に「それもそっか」と納得して、すっと声を潜めた。
「お前さ、カラ松を見るときの表情が前と全っ然違うからな? 表情が柔らかくなったな〜くらいなら可愛げがあるけど、もうダダ漏れ。メシ食う前からお腹いっぱいですごちそうさま、ってなるから」
「身内の惚気を目の当たりにするのキッツイよね」
「え?」
「だから、顔? というか、オーラ? もう全身から、好きです〜って空気が出まくってるから、お兄ちゃんすっげえしんどい」
トド松も神妙な顔をして首を縦に振る。
「俺、そんな顔してた?」
「してたしてた」
「ちなみに俺は顔見なくても分かった」
おそ松は得意げに鼻を擦って笑った。
「まじか」と呟いて一松は思わず頭を抱える。兄弟に気づかれてることが恥ずかしいのもあるが、それ以上に分かりやすすぎる自分が情けない。もしやあの時も――と考え始めるときりがない。
「今度から意識しておけばいいんじゃない。僕はどっちかというと前みたいに殺気立たれる方が嫌かな。今の方が人間味があっていいと思うよ」
項垂れる一松にトド松が声を掛ける。真っ直ぐ飛んできた言葉に一松は弾かれたように顔を上げた。淡々と食事を再開したトド松の横顔からは言葉以上のことは読み取ることができない。
弟に人間味があると評されるのは兄として手放しに喜んでもいいのだろうか。
「お前ら、後は片付けとけよ」
チョロ松の声が降ってきたと思ってパッと見渡すと、食卓の半分は綺麗に片付いていた。いつの間に食べ終えていたんだろう。
「一松くん、愛しのカラ松くんに置いていかれちゃいましたねぇ」
全く懲りない様子でおそ松が浮かれた声を上げる。
「俺らもそんな四六時中一緒にいるわけじゃないし」ムッと唇を尖らせる。
おそ松は「それもそうだねえ」と二階が透けて見えるとでいうように天井を見上げた。視線の先を追うと、誰のものかすぐ分かる足音で蛍光灯の紐が揺れていた。
◇ ◇ ◇
太陽がてっぺんを過ぎる頃には兄弟てんでバラバラで、誰が家にいるのかすら分からない。
一松が様子を窺うように部屋に入ると誰もいない。押し入れからカラ松のギターを拝借する。使い込まれた教本を開く。きっと何度も開かれたことが分かる、癖のついたページ。弦を押さえる。次の瞬間鳴るであろうコードを期待して、右手を動かす――。
「誰かいるー?」
襖が勢いよく開く。びいん、と期待とは程遠い音が鳴り響いた。
「あ? 一松か。何してんの?」
心臓が早鐘のように鳴り、チョロ松の言葉が全く聞き取れない。何か一松に話しかけていることはかろうじて理解できたが、あ、とも、え、とも区別がつかない母音が口から漏れるだけだった。
「別に何をするってわけでもないけどさあ。ちょっとどいてよ」
一松の横を通りソファーに身を投げた。チョロ松はハローワークかどこかで貰ってきたのだろう求人雑誌を開き「そのギター、カラ松のだよな?」と何気なく尋ねた。
「そう、だけど」
一松はどぎまぎしながら答える。落ち着き始めた心拍数がまた上がった。黙って拝借していることを除けば、責められるほど悪いことはしていない。追及されるのではないかと、恐れてしまう。
「弾けんの?」
「……いや、まだそんなに」
「そう」
カサ、とページを捲る音がする。このまま練習を再開するにも気恥ずかしくて、どうしたものかとやり場のない右手に視線を移す。
「カラ松は知ってんの」
「何を」
「お前がギター弾いてること」
「知らない。たぶん」
「へえ」一定のリズムで聞こえていた音が止まる。「なんていうか、意外だな。お互いのことを全部知ってるわけじゃないんだ」
「まあ、さすがに」
「なんで?」
「なんで、って」一松は思わず言葉に詰まる。「……チョロ松兄さんは、質問するの好きだよね」
「そう? 一松がはぐらかすから気になるんじゃないの」
一松の頬がぴくりと引き攣った。
「バレてる?」
「バレバレ。前もそうだけど、そんなに話したくない?」
「話したくないっていうか、恥ずかしくない? 兄弟にそんな踏み込んだ話すんの」
「あー……そういうことね。今は僕が聞く側だから、何とも思わないな」チョロ松はケロッと開き直る。「で? カラ松との間にも隠し事みたいなのあるんだ?」
暴君みたいなところがあるよな、と一松は観念する。こうなってしまえば梃子でも動かないだろう。
「たぶんカラ松にもあるよ。俺にもあるくらいだし。隠し事だけじゃない、未だにカラ松の考えてることが分かんないときもあるし、逆もあるんだろうし。先のことは分からないけど、今はそういう関係でもいいかなって思ってる」
「僕にはお前の考えがよく分かんねえよ」
「そっか。じゃあ秘密の一つや二つ持ってる方が健全な感じがする、ってことで」
「やっぱ分かんねえな」とチョロ松は笑った。再び紙の乾いた音がする。僅かに振り返って様子を窺う。もう一松への興味は失っているようだ。
宙を彷徨っていた右手でギターを撫でる。ただ何となく言ってこなかったこと、聞かなかったことがお互いにあるだけだ。本当に今はそれでいいと思っている。毎日同じ屋根の下で顔を突き合わせて、お互いのことを一から十まで知っているというのは変な気がする。カラ松のことを掴みどころのない人間だと認識していて、それが違っていたとしても、今はまだ答え合わせをするのが怖い。
まだ、この距離感のままでいい。
丁寧に弦を弾くと、今度は期待していた通りの音が鳴った。
◇ ◇ ◇
「カラ松兄さんは、なんで一松兄さんなの?」
カラ松はヒュッと息を飲んだ。十四松の突拍子もない発言は今に始まったことではない。度肝を抜かされることも毎回だが、あまりにも脈絡がなさすぎる。
「ど、どうしたんだ、十四松?」
動揺を隠せずにカラ松は質問に質問で返す。カラ松の心情など知る由もない十四松は律儀に答えた。
「一松兄さんはカラ松兄さんじゃないとダメな理由って見てたらなんとなく分かるんだけど、カラ松兄さんはなんで一松兄さんを選んだのかな、と思って! そのまんまの質問だよ」
「……その、一松が俺じゃなきゃいけない理由って何だ?」
「うーん、直接話したわけじゃないけど、カラ松兄さんは一松兄さんに無いものをたくさん持ってるからかなー。憧れとかに近いんだと思う。まあ、僕が勝手に思ってるだけなんだけどね」
十四松は「これ一松兄さんに言っちゃだめだからね! 僕の予想だから!」とぱたぱた袖を振った。
「そんなの全然想像つかないな」
「そうかなあ。たぶんカラ松兄さんが想像してるよりもずっと、一松兄さんはカラ松兄さんのことが好きだと思うよ。これは絶対に当たってると思う! 聞いてみたらいいよ!」
「それは是非聞いてみるとしよう」
「当たってたら教えてね」
「もちろんだ。――ああ、そうだ、ちゃんと質問に答えなくてはいけないな。簡単に言うと、俺と一松が似てると思ったから、だな」
「似てる? カラ松兄さんと一松兄さんが?」
「ああ。似てるんだ。だから俺は一松がいいんだと思う」
「そっかー。よくわかんないけど、カラ松兄さんが似てると思うんなら似てるんだね。すっきりした! 教えてくれてありがとう!」
◇ ◇ ◇
身を刺すような寒さがなくなった。夜空も心なしか淡くぼやけて見える。
「もうすぐ春だね」
一松は素足を摺り寄せて呟いた。隣から温かい声が返ってくる。
「俺、カラ松に聞きたいことがあるんだ」
「何だ? 俺に答えられることなら」
緩く微笑むカラ松の手を取って、一松は真正面に向き直る。
「あの、さ、お前は覚えてるか分かんないけど、俺、山月記の話をしたの覚えてる?」
「ああ、覚えてるとも。夢を尋ねたら虎になりたいと返ってきたんだ、覚えているさ。それに――」カラ松が一松の手を握り返す。「一松のことだから覚えてるに決まってるだろ」
「うん」
一松はいつか見た煌めきを思い出していた。何かが変わっていくような、あの煌めきを。
「そのときのことなんだけど、カラ松はなんで起きてたの」
「その質問には答えたつもりだったんだけどな」
「納得できるわけないだろ。僕は気づかなかったけど、あのときより前もしばらく後もずっとあんな夜を過ごしてたんじゃないの。僕の知らない夜をいくつも独りで、たったひとりで過ごしてたんじゃないの。今もそうなの? どうしてもそれが知りたいんだ。それだけが知りたいんだ」
一松は強くカラ松の手を握りこんだ。
「なあ、あんたは今、幸せか?」
カラ松は大きく目を見張った。答えを探しているのか、瞳が揺れる。
まるで海みたいだ。
昼日中のどこまでも青い海ではない。夜の海だ。深く、暗く、この世の憂いや淋しさをじっと湛えているかのような海。
ぱちり。
海が見えなくなった。そう思った瞬間、カラ松の声が聞こえた。
「はは、心配症だな。やっぱりお前は俺に似てる」
「茶化さないでよ」
「茶化してなんかないさ。俺と同じ目をしてる」カラ松が目を細める。「結論から言おうか、一松。俺は十分に幸せだ。心配しなくていい。むしろ俺の方が一松に聞きたいよ」
「そんなこと聞くまでもないだろ」
「ああ。それでも聞きたくなってしまうんだ。お前の心配するようなことはもうないよ。お前にはたくさん救われたんだ。もう独りで明かす夜なんてないさ」
「ほんとに?」
「もちろんだ。こんなに愛されてるなんてなあ」
「だから――」
「分かってるよ。ちゃんと質問には答える。そうだなあ、どこから話したらいいんだ。この話は長くなるぞ」
「長くなったっていい。夜はまだ長いんだ」
結局、青い海も、夜の海も、手の中にすくってしまえば同じ色だったんだ。
その色は遠い色なんかではなかった。
これにて完結。書きたいことを書きたいように書いていたから、矛盾もいっぱいあるかもしれない。
でも、お付き合いいただいてありがとうございました。