身に染みついた習慣とは恐ろしいもので、例え環境が変化して無意味なものになってしまったとしても、体が無意識に反応してしまうものだ。
かくいうカラ松も、トド松に声を掛けられるまで、自分がいつものようにパーフェクトファッションに身を包みシャイなカラ松ガールズから声を掛けられるのを待っていることなど気づきもしなかったのだ。
「カラ松兄さん、よくそんなクソダセェ恰好でいられるよね。一周回って尊敬するよ」
背後から辛辣な言葉が飛んでくる。振り返らずともその声の主が末弟のトド松だと分かった。
「俺のパーフェクトファッションの良さを分かってくれるか!」
「ダメだ、耳も脳もポンコツだ」苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。「そんなことより、ここで何してるの?」
「……何をしていた、か。そうだな、風の音を聞いていたところだ」
いつもの癖でナンパ待ちをしていたとは言い難い。
カラ松ガールズから声を掛けられれば嬉しいことには違いないが、一松という恋人がいる以上浮気宣言ともとられかねない。一松がこの場にいないとしても、親愛なる恋人を裏切ることはカラ松の理念に反していた。
「へぇ、逆ナン待ちじゃないなんて珍しい」
険しい表情も取れてきょとんとしながらトド松は感心したように呟いた。
「トド松こそどうしたんだ」
兄弟揃いのパーカーを着ているということは、デートでもアルバイトでもないのだろう。ひとりでも活動的な末弟が、家の外でどんなことをしているのかカラ松はそれ以上察することができなかった。
「別に暇だっただけだよ」トド松は唇を尖らせる。「でなきゃ、クソみたいな身内に外でわざわざ声なんて掛けるわけないじゃない」
気の利いた返しも浮かばず、カラ松は「そうか」とだけ言った。
「ていうか寒くないの?」
「寒いことには寒いが」サングラスを外し、トド松に向き直る。「お前の方が寒そうじゃないか」と、すっかり赤くなっている鼻を指す。
「寒いに決まってんじゃん。寒そうな弟が可哀想だと思うなら、お茶の一杯でも奢ってよ」
「……最初から俺にたかる気で声を掛けたな」
してやられた。
こういうことをいとも簡単に要求できるところが、この末弟の世渡り上手たるところなのだろう。
「さあ、どうだろうね」
トド松はしたり顔で微笑んだ。ニット帽をかぶりなおし、「じゃあ行こっか」と声を弾ませる。
財布の中身を思い浮かべ、おずおずとトド松に行先を確認すると、隠れ家的な喫茶店があるという。
「同じ顔した兄貴とパンケーキ食べに行くとか僕から願い下げだから安心してよ」とトド松は不安げな表情を浮かべるカラ松に笑いかけた。
案内された喫茶店は住宅地に溶け込むかのようにひっそりと佇んでいた。古めかしい木製の扉を引くと、コーヒーのかぐわしい香りが鼻腔をくすぐった。店内をぐるりと見渡すと、カウンターには穏やかに談笑する老夫婦が、テーブル席には自分たちと同い年くらいであろう女性グループや、パソコンを広げる男性が、それぞれの時間を過ごしているのが見えた。
適当なテーブル席に腰かけると店主と思われる年配の男性が水とメニュー表を運んできた。
「ご注文が決まったらお呼びください」
見た目通りの落ち着いた声だった。こつこつと革靴の音がカウンターの向こうへ消えるのを十分に待ってから、カラ松は「なあ、トド松」と声を潜めた。メニュー表から顔を上げ、トド松は片眉を上げた。
「なに?」
「なんでこんな店をお前が知ってるんだ?」
トド松が女の子と一緒に来るとは考えにくかった。もっと女の子ウケするような、生クリームや果物をふんだんに使ったスイーツがあるような店を選ぶはずだ。こぞってメディアに取り上げられるような、きらびやかで新しい店だ。それとも、トド松が読んでいる雑誌にはこの店が取り上げられていたのだろうか。あるいは、こういうシックな雰囲気の店を好む子がいるのだろうか。
「囲碁クラブの人におすすめされたんだよ」
カラ松の予想はどれも外れていた。
囲碁クラブ。盲点だった。囲碁のために集まる人達なら、こういった店の名が挙がるのは自然に思える。紹介したのは、年配のご婦人か、はたまた初老の男性か。これ以上尋ねても、トド松の交友関係の謎が増えていく一方だと思い、カラ松は質問を重ねることはしなかった。
「まあ、僕も初めて来たんだけどね。で、僕はケーキセットにするけど、カラ松兄さんは何にする?」
くるりと方向を変えて渡されたメニューに目線を落とす。こじんまりとした店構えに反して、豊富なメニューに面食らってしまった。コーヒーだけでも名前がずらっと並んでいる。どうやら豆の販売もしているらしく、書いてある種類は全て取り扱っているらしい。モカ・マタリやキリマンジャロなど耳にした覚えのある名前がいくつもあった。トド松の言うセットメニューを探すと、ケーキの他にサンドイッチもあるようだった。
「サンドセットにするとしよう」
「オッケー。セットドリンクも決めといてよ」
慣れた手つきで店主を呼び、トド松はてきぱきと注文を済ませた。さすが接客業でアルバイトしていただけある。カラ松は感心して弟の顔をしげしげと眺めた。
「なに?僕の顔に何かついてる?」
トド松は訝しげに眉を寄せた。カラ松は慌てて「何でもない」と取り繕うが、トド松は釈然としない様子で頬杖をついた。
沈黙が二人の間に流れ、他の客の話し声が大きくなったように感じる。ふとカラ松は人の声の間を縫って、音楽が流れていることに気が付いた。弦楽器の柔らかい旋律が聞こえてくる。さしずめクラシックか何かだろう。あいにくカラ松はクラシックに明るくなく、どんな曲なのか分からなかったが、良い曲だと思った。店の雰囲気と調和していて、まるで店全体でひとつの作品のようだと思った。
今度一松と来たいな。
カラ松の考える先は自然と一松に帰着した。彼も自分同様にクラシックにもコーヒーの銘柄にも詳しくはないが、きっとこの店のことを気に入るだろうという確信があった。自分が気に入ったものは共有したいし、一松が気に入っているものは共有してほしい。そう思うことはカラ松にとって自然だった。
「お待たせいたしました」
店主の声で現実に引き戻される。トド松は板についた様子でケーキの写真を撮っていた。
これは、もしかしてチャンスなのではないか?
カラ松は突如としてひらめいた。目の前にはトド松一人。店内はそれなりに賑やかで、他の客やカウンターともやや距離があり、声を張らなければ他の客の話している内容など聞こえない。これをトド松にカミングアウトする良い機会だと言わずに、何と言うだろうか。
「カラ松兄さん?」
ケーキにフォークを差しながらトド松が首を傾げる。
「トド松、話しておきたいことがあるんだ」
◇ ◇ ◇
早計だった。結果を言えばその一言に尽きる。
カラ松は空になってしまった向かい側の席を眺めて、すっかりぬるくなったコーヒーを啜った。舌の奥に苦さだけが残る。思わず顔を顰めたが、これがコーヒーの苦みだけではないことを自覚していた。自分の浅慮に対する反省と、後悔だ。
カラ松が話した途端、トド松は頬を引き攣らせ奇妙な笑みを浮かべた。どういう表情を咄嗟に取り繕えばいいか悩んだ結果なのだろう。初めて対峙した明確な拒絶にカラ松は小さく謝った。
「急にこんな話をしてすまなかった。でも――」
「ごめん、ひとりにさせて」
口早にカラ松の言葉を遮って、トド松は席を立った。俯いたまま店を後にしたトド松を追いかける気力も起きず、カラ松は力なく背もたれにしなだれた。深く息を吐く。空になった肺いっぱいにコーヒーの香りが流れ込む。泣いているような弦楽器の音色に誘われて涙がせり上がってくる。いや、泣きたいのはむしろトド松の方だろう。カラ松は奥歯を噛みしめた。拒絶されたからという理由で泣く資格はない。始めから分かっていたことだ。
◇ ◇ ◇
公園のベンチでうなだれている弟を見かけたら、普通兄として放ってはおけないだろう。一松は近くの自動販売機でココアを二本買い、地面を見据え続ける弟の隣にわざと乱暴に腰かけた。
「よう」
「……一松兄さん」
トド松はちらりと一瞥して、また目線を落とした。声を掛けたことを後悔しはじめたが、飲み物も買ってしまった手前、引くに引けない。
「これ」
「なに?」
「ココア。要らないならいいけど」
「もらうよ。ありがとう」
トド松は暖を取るように缶を包み持った。思ったより重症っぽいな。トド松の様子を横目に見ながら一松は缶を開けた。いつものトド松なら一松がわざわざ水を向けなくても、待ってましたとばかりに愚痴を言い始めただろう。兄弟でも口が良く回る方のトド松が黙していることだけをとっても様子がおかしいことが分かる。
「あの、さ、聞いてもいいやつ?」
おそるおそる口に出す。こんな聞き方しかできないことが情けなくも思えた。それでも聞かずにはいられないのは兄としての矜持だと思う。
「……うん。まだ僕も整理ついてないんだけどさ。人に言ったらすっきりするって言うもんね」と眉を下げた。
「もしも、もしもだよ? もし、自分の身近な人がホモだった、って知ったらどう思う?」
「どう、って……」
一松は答えることを躊躇した。迂闊な返答をしては、自分とカラ松の関係が明らかになるかもしれない。話の流れで漏らしてしまうようなことは不本意だ。加えて、トド松の切り出し方でトド松自身が同性愛者について抵抗があるのはすぐに察せた。
「急にこんなこと聞かれても困るよね。ごめん」
「いや、俺も。びっくりしただけだから。で、どういうこと?」
「うーん、うまく言えないっていうかどう言っていいか分からないんだけど、男と付き合ってるって言われた。そう、男と付き合ってる、って。なんで? って思った。大パニックだよ。意味が分からない」
「それであんな質問してきたのか」
「そう。ごめん。全然整理できてなくて。カノジョができたって言われたんだったら形だけでも祝うとかできたのに、全然何も言えなかった」
まだ思い悩むようなトド松の横顔を眺めながら、一松は誰のことなのかうすうす見当がついていた。でも、もしかしたら無関係なトド松の友人のことかもしれない。
「他は?」
「え?」
「びっくりして何も言えなかった、ってだけじゃないんだろ? とりあえず全部言っちまえよ。その本人が聞いてるわけでもないんだし」
「そう、だね」
両手で弄んでいたスチール缶に指をかけ、トド松はぐっと飲んだ。酒じゃないんだから、と言いかけたが一松も倣って缶を傾けた。
「正直に言うとさ、引いちゃったんだよね。もちろん驚いたのが一番大きいけど、ハイそうですか、って受け入れらんないよ。 一瞬で自分の保身まで考えた。僕も下手したら他の人からホモだって思われるの? 恋愛対象にもなるの? うわぁって思ったのが顔に出てたんだろうね。向こうもそれ以上詳しい話もしないし、僕は僕でわけわかんないし、それでここまで逃げてきたんだ」
缶を握るトド松の指先が白くなっている。
「ねえ、一松兄さん。カラ松兄さんから男と付き合ってるんだって急に言われたらどうした? 僕はどうするのがよかったと思う?」
トド松が縋るように顔を向けた。嫌悪と困惑と後悔が入り混じって、青ざめている。一松は悟られないように溜息をついた。こんなに当たっても嬉しくない予想が的中するもんだ。ただ一つ、カラ松が誰と付き合っているのか言っていない点だけが予想外だった。
「別にお前がクソ松を気遣う必要はないんじゃねえの」
「一松兄さんに聞いたのが間違いだった。どんだけカラ松兄さんに興味ないの」
「興味ないっつうか、そんなんじゃなくて、直接言ってやればよかっただろ。信じらんない! ぐらい言ってもアイツは怒ったりしないんじゃねえの」
「それもそうだけど」トド松は口を尖らせた。「でも、いつもあんなイタイ格好で逆ナン待ちしてるような人間が男と付き合うって信じられる?」
「……俺は、クソ松から直接聞いたわけじゃねえし、信じるも信じられないもないんだけど。元から男が好きだってわけじゃなくても、男と付き合うことくらいはできるかもしれない。ただの推測だけど」
話題にするだけでトド松の抱いている嫌悪感がじりじりと肌に当たるのを感じる。トド松が言った通り、今よりもさらにあからさまな拒絶をカラ松に示したのだろう。今ですら心が折れてしまいそうだというのに、と対峙したカラ松を案じた。多少なりとも覚悟していたとはいえ、兄弟からの言外の拒絶はつらい。
「それに、男が好きだから女が嫌いになったとは言えないだろ」
「そっか」
「そうだよ。……たぶん」
自分のことも考えて、一松は念を押した。ちゃんと言葉にしたことはないが、カラ松も女性に興味を失くしたわけではないはずだ。女性に好意を寄せられたら舞い上がるに違いないし、好みの女性がいれば浮ついた気持ちにもなる。ただ、一番大事な存在が男性で、兄弟であるだけで本質は変わっていない。一松がそうなのだから、カラ松もきっとそうだろう。
「一松兄さんに話せて、ちょっと楽になったよ。ありがとう」
トド松はいつものようににっこりと笑みをつくった。
「あと、ひとつだけお願いがあるんだけど」
「なに」
「このことを誰にも言わないでほしいんだ。もちろんカラ松兄さんにも。たぶん知られたくないと思うんだよね。だから、お願い」
「ああ、分かった」
落ち込んでいるであろうカラ松をどうフォローすべきか一松は思案し始めた。
◇ ◇ ◇
帰り道にあるコンビニから見知った顔が出てきた。思わず立ち止まると、相手も気づいたようで一目散に詰め寄ってきた。
「おい今からどうせ暇だろ、付き合えよ」
カラ松を見るなり、一松はつっけんどんに言い放った。ビンゴ、と一松の唇が震えたが、カラ松は首をひねるしかなかった。
「どこに行くんだ?」
ずんずんと先を歩く一松の背中に問いかける。迷いのない足取りで、人気のない方へ進んでいく。一松は「別に」と言ったきり何も言わない。今日は誰かについていくばかりの日だ。カラ松はぼんやりと考える。
視界の端できらりと何かが反射した。
顔を上げるといつの間にか川辺に来ていた。なだらかな土手に身を投げ出した一松の隣に、そっと腰を下ろす。冷たい風が頬を刺す。寒さのせいか辺りに人はいない。
「はい、これ」
思い出したかのように一松が体を起こし、ビニール袋を漁った。缶を手渡される。ひやっとした感覚に背筋が震えた。
「外じゃ寒いだろうけどさ、平日の昼間だし、二人になれるとこって無えよな」そう笑った一松の手にも同じビールの缶が握られていた。「とりあえず飲めよ、カラ松」
プルタブに指をかけると、カシュッと小気味いい音が二つ鳴った。タイミングを見計らったかのように、やわらかい日差しが降り注ぐ。こういう日差しを小春日和とでも表現するのだろうか。寒さの中、飲むビールも乙なものかもしれない。
「冬飲むビールもなかなかオツだよね」
カラ松の心でも読んだのかのように一松が歯を見せる。同じようにニッカリ笑って同意したかったが、口の端がぴくりと動いただけでぎこちない微笑みになってしまった気がした。
「それはそうと、急にどうしたんだ、一松。何かあったなら聞くぞ?」
「何かあった、っつうか……ちょっと聞きたいんだけど、お前、弟がひとりで考え込んでたらどうする?」
「弟? 四人のうち誰でもか?」
「そうだよ、俺も含めて、お前にとっての弟の誰かが」
「そうだな。放ってはおけないな。声は掛けると思う。兄として、俺にできることは何でも協力したいからな」
「だよなぁ、俺も曲がりなりにも兄貴だからそう思うよ。同じでよかった」
「……それだけか?」
なんとなく一松が何かを隠している気がした。様子を探っているような感じだ。本当に何かあったのだろうか。
「いや、ちょっと聞きたかっただけ」一松は缶を呷る。「お前こそ、何かあっただろ」
ドキリと心臓が跳ねた。嫌な汗が背中を伝う。
心当たりが一つだけある。しかも、特大のやつだ。どう言えばいい? 勝手な真似をした、早まった俺を一松は許してくれるだろうか。
唇をはくはくと動かすだけのカラ松を一瞥し、一松は一方的に話し始めた。
「さっきさ、散歩してたら公園のベンチにトド松が座ってたんだよ。座ってたっつうかうなだれてた、の方が近かったな。やっぱり俺も声を掛けた。兄貴だから、放っておけなくて」
「一松、俺――」
堪らず口を挟むが、何を続ければいいのかカラ松は自分でも分からなかった。謝りたいのか、事情を話したいだけなのか。一松はぽつんと「全部聞いたよ」と言って口を噤んだ。
「全部、聞いたか」
「うん」
「勝手な真似して悪かったな。俺が先走ってしまったのはこれで二度目だ。すまない」
「謝るなよ。別に責めてるわけじゃない。たぶん俺がお前でも同じことしたよ」
「一松だったらもっとうまくやれた気がする」
「変わんねえよ、俺とお前なんて。そういうことが言いたいんじゃなくてさ」苛立ったように一松が頭を掻く。「それよりも、俺はお前が心配で」
「……心配?」
「トド松の話を聞いてるだけでちょっとしんどかったんだよ。まともに拒否反応示されたの、初めてだったし。だから直接会って話したお前はもっとしんどかったんじゃないかって、へこんでんじゃねえかなって……そういう心配だよ」
目を丸くしたカラ松を見て、一松は「余計なお世話だったかもしんないけど」と口を尖らせた。
「気を遣わせて悪かったな。ありがとう、一松。でも、急に話を切り出した俺が悪いんだ。おそ松のときみたいにちゃんと場を設けて話すべきだったんだよ。どうにも気が急いてしまってたんだ」
「へこんでないならいいよ。でもさ、男と付き合ってるって言ったはいいものの、相手が俺って言ってないよな」
「え、そうだったのか」
「気づいてなかったのかよ。トド松の話じゃ、言ってなかったみたいだけど。どうすんの、相手が兄弟だって知ったらアイツ卒倒すんじゃねえの」
一松が喉を鳴らす。
「笑いごとじゃないだろう」
遅かれ早かれ伝えなければならないことに目の前が暗くなる。二度も弟にあんな複雑な表情をさせるのか。思わず手に力が入り、缶が情けない音を出して凹んだ。
「想像以上に強かだよ、アイツは」
凹んだ缶を眺めて一松は静かに言った。
「どれくらい時間がかかるか分からないけど、アイツなりに結論を出して返してくれるよ。だからそれまでにどう伝えるか考えよう。もちろん、二人で」
◇ ◇ ◇
小春日和と言うべきか。すっきりと晴れた空が眩しい。カラ松は鼻歌交じりに屋根まで上る。きっと今日は良い音が鳴るに違いない。
上りきると、人影が見えた。どうやら先客がいたらしい。逆光で顔の見えない影がくるりとこちらを向いた。
「やっぱり。ここにいたらカラ松兄さんが来ると思ってたよ」
ちょうど雲が太陽を遮ってようやく表情を見ることができた。
「……トド松」
カラ松に応えるように、トド松は眉を下げて力なく笑った。
「あのさ、ちょっと話をしようよ」
手招かれ、おとなしくトド松の隣に腰を下ろす。喫茶店以来、二人きりで話すのは初めてだ。話とは何だろう。内臓がスッと冷える心地がする。しかし、どんなに辛辣な言葉でも真摯に受け止めようとカラ松は拳を強く握った。
「こないだは、話の途中で帰っちゃってごめん。そういう人達がいるってことは知ってたけど、やっぱりいざ実の兄がそうですって言われて受け入れらんなかった。カラ松兄さんのこと、傷つけるつもりはなかった。本当にごめん」
「いや、トド松は悪くない。俺こそ急に話してすまなかった。普通は引いてしまうようなことだと思う。すまない」
「いいよ、謝らなくて。こればっかりは終わったことだし。それでね、あの後僕は僕なりにいろいろ考えたんだ。僕の、自分の気持ちとかさ。そういうのをちゃんとカラ松兄さんに伝えておきたくて。……ぶっちゃけさ、混乱したのもあるけど、やっぱり僕とカラ松兄さんが同性だってのも大きかったんだ。引く、っていうか嫌悪とか拒絶とかもっと強い感情もあったと思うし、たぶん僕の顔にそれは書いてあったんでしょ? それはやっぱり僕は弟で、さらに言えば僕らは六つ子で、似たようなものだから。これがもし知り合いの女の子だったらもっと抵抗は少なかったんじゃないかなって思う」
喫茶店で向かい合ったトド松の表情を思い浮かべる。トド松の言う通り、これが異性のカミングアウトであればいつものように表面だけでも取り繕うことができたんだろう。それが瞬時にできるほどに器用な弟のはずだ。
「それで、時間はかかったけど、それはそれで飲み込むことにした。だって僕がどうこう言ったってカラ松兄さんの感情とか人生を否定するとかはできないんだし。ていうかそれができるんだったら、まずあのイタイ服装どうにかしたいし。だから今日は、あの日の続きを聞こうと思ってるんだけど、いい?」
「ああ。聞いてくれるか」
「うん、聞きたい。あ、でも僕、他人の惚気話は聞くのは嫌いだから、とりあえずどんな人と付き合ってるのか教えてよ」
「どんな人、か。お前もよく知ってる奴だよ」
「え? マジで?」
「……たぶんその辺にいると思うけど」
カラ松はきょろきょろと辺りを探す。なんとなく一松が近くで聞いてくれている気がした。
「その辺にいるって、……それ、もしかして、いや、もしかしなくてもさ……」
「勘がいいな、トッティ」
トド松の声を遮るように一松がのそりと屋根を上がってきた。一松の登場にトド松が息を飲む。
「え、ちょっ、な、なんで一松兄さんが出てくんの。いや、やっぱりいい。言わなくていい。は? そういうことなの? ほんとに? じゃあ僕とんでもない相手に相談しちゃったわけ? なにそれバカじゃん!」
状況を飲み込めない、もとい、飲み込みたくない様子でトド松が声を荒げる。その姿に一松は愉快そうに見つめた。
「つうか、なんで俺がいるって分かんの? エスパー?」
「シックスセンスってやつだ」
片目を瞑ってみせるとトド松が「勝手に二人だけで会話を進めるな!」と叫んだ。
「えー、ご覧の通り、ワタクシ松野一松は、兄・松野カラ松とお付き合いさせていただいております」
「マジかよ……」
カラ松の肩を抱き寄せた一松の宣言に、トド松は深く頭を抱えた。
「そんな茶化した宣言はないだろ」とカラ松が窘めるも、一松はにやにやと笑みを浮かべ手を離さない。トド松の悶える様子を見るのが心底楽しいのだろう。完全に極悪人の顔をしている。
深い溜息の後、トド松は憑き物が落ちたようなさっぱりした表情を浮かべた。
「なんかもうどうでもよくなっちゃった。たぶん僕が一松兄さんに相談したことも伝わってるんだろうし、もう言うことはないや」
「お察しの通り、だいたいコイツに話したよ。話すべきだと思ったし」
「そっか。でも、カラ松兄さんの秘密をよりによって一松兄さんに言っちゃったっていう罪悪感があったし、どっちにしろ気は楽になったよ」
すくっとトド松が立ち上がる。お互いに話すべきことはきっともうない。
「あ、そうだ。兄さん達が何しようと勝手だけど、僕らおんなじ顔なんだし、僕に被害が及ぶようなマネはやめてよね。あと目の前でいちゃつこうもんならはっ倒すから覚悟してよ」
異論はない。カラ松は神妙な顔つきで頷いた。
「カラ松兄さんはいいけど、特に一松兄さん、ほんとに節度は守ってよね」
振り向きざまにトド松が釘を刺した。一松はひひ、と笑みを零し「分かってるよ」と返す。それまでの表情にそぐわないほど真剣な声音だった。トド松は僅かに瞠目したものの、納得したように部屋の中へ戻った。
屋根の上に一松と二人。交わす言葉もなく、時間だけが二人の間を流れていく。
カラ松はギターに手を伸ばし、弦を鳴らす。今なら遠くまで何かを届けられる気がした。澄んだ空を見上げて、カラ松は深く息を吸った。
今回もSNSより先に更新。表紙ができ次第、前作と一緒にアップロードします。前回がやや短めだったので2作まとめようと思っていましたが、今回それなりの長さになったのでやっぱり分けて上げる予定です。
自分の保身ができればいいあたり、ドライモンスターたる所以でしょうね。