ゆうやけこやけ

「結果論だけどさ、こうしてちゃんと俺たちのこと話せて良かったって思う」
 アルコールのせいか、人ひとり運んでいるせいか、普段より熱っぽく一松が口を開いた。
「ミカタ? って言っていいのかな。その、味方ができるのってこんなに心強いんだな、って思った。たぶん今日ほどおそ松兄さんを頼もしく感じたことはないよ」
 俺もだ、と同意しようとした。が、それよりも先に一松は言葉を継いだ。
「本当は、不安だった。不安だったよ、どうやって言ったら伝わるかなとか、引かれたら、拒絶されたらどうしようって。だからさぁ、結果論なんだよね。あー、話して良かった、っていうのは。それでも俺は十分に救われたし、決断が間違ってないって言われたようでホッとしたんだ」
 一松が一呼吸置く。
「俺、お前が隣にいてくれて本当に良かった。ありがとう」
 突然の礼に、カラ松は咄嗟に言葉が浮かばなかった。
 固まってしまったカラ松を見て、一松は優しく目を細めた。
「幸せにするって言ったのにウソはないし、今でもそう思ってる。でも、俺、横にお前がいないと、俺ひとりだとダメみたい。逆にさ、あんたがいれば大丈夫なんだ、だから、ありがとう」
「……今日はえらく饒舌だな」
「そんなことはないと思うけど。あ、もしかして泣いてる?」
「泣いてない」
「ちょっと涙目になってる?」
「なるわけない」
 一松の視線から逃げるように顔を背けた。ただ愛を紡がれるよりも強烈な愛の告白だったと、一松は自覚していないだろう。俺がいるだけで大丈夫だなんて!
「今夜は月が眩しくて、目が眩んだだけさ」
  空いた手で目頭に浮かび始めた涙を拭って、カラ松は平静を装う。一松も「そう」と返して追及してこなかった。

◇ ◇ ◇

「兄さんたち、帰りっすか!」
 夕暮れの河川敷で、大声で名前を呼ばれる。声のする方に視線を動かすと、橋の下で手を振っている人影が見えた。逆光と橋の影に隠れて顔は見えないが、バットらしきものを担いでいるから十四松だろう。カラ松が右手を挙げ、声に応じる。嬉しそうな声と共に人影がぐんぐん近づいてきた。止まることを無視した全力疾走だ。
「十四松」
 カラ松が制止の声を上げるより先に、隣の一松が弟の名を呼んだ。威勢よく十四松がそれに答え、急停止する。目の前が土煙で濁る。風にさらわれてクリアになる視界の中で、げほげほと咳き込みながら、一松が大型犬を宥めるように十四松を抱き押さえていた。
「グッジョブ、一松」
 自身も咳き込みながら、カラ松が親指を上げる。
「最近兄さんたち仲良しっすな」
 何事もなかったかのように十四松が足を進め始めた。カラ松は一松を顔を見合わせて、その泥で汚れた後ろ姿を追った。
「あのさ、十四松」
 一松の声に、十四松がぐるりと振り向く。
「なに、兄さん」
「ちょっと話があるんだけど」ちらとカラ松に目配せをした。「驚かずに聞いてほしい」
 十四松がきょとんと首を傾げた。一松の真剣な表情が崩れないのを見て、神妙な顔で「わかった」と頷いた。
「俺、こいつと付き合ってるんだ」
 ぐい、とカラ松の腕が引かれた。一松の指が小刻みに震えているのが分かる。助け舟を出すべきか逡巡して、カラ松はこのまま見守ることにした。ポケットからサングラスを取り出す。夕陽が眩しいせいであって、決して一松の凛々しい横顔に目の奥が熱くなったからではない。
「……十四松?」
 顎に手を当て考え込んだ十四松に、おそるおそる一松が声をかける。ぱちりと瞬きひとつして、いつもの朗らかな表情で笑みを浮かべた。
「こういうときって、こう言うんでしょ。『お幸せに』!」
 思い出せなくて困ったと舌を出す十四松に、カラ松も一松も呆気にとられた。
「えっ、僕、間違ってた?」
 途端に焦りだした十四松に、カラ松がやっとの思いで「いや、間違ってはないが」と返す。
「良かったー! あ、兄さんたち、今全くおんなじ顔してんね」
 十四松がからからと笑う。
「十四松、聞かないの?」
「何を? 夕飯のメニュー?」
「そうじゃなくて、理由とか、経緯とか普通もっと言うことあるんじゃないの」
「ないよ」
 一松の問いをあっさり切り捨て「早く帰ろう」と十四松は背を向けた。
「一松兄さんの言う普通は僕には分からないけど、兄さんたちがそれでいいなら僕もそれでいいと思うよ。それにさ、恋とか愛とかって人から言われてどうにかできるモノじゃないと思うんだよねー。だから兄さんたちが納得してるなら、僕は何も言わないし僕も納得する」
 淡々と語る背中は、普段よりも大きく見えた。
 カラ松は、辛うじて腕に引っかかっている一松の手を取り歩みを促す。手の震えはすっかり収まっているようだが、肩が少し震えていた。
「泣いてるのか、一松」
「泣くわけない」
「声が震えているようだが」
「気のせいだろ、クソ松」
 後ろの様子を気にすることなく、十四松の口は動き続ける。
「別に兄さんたちが付き合ったからって、地球が爆発するわけじゃないし誰かが死ぬわけじゃない。僕にとっても一松兄さんは一松兄さんだし、カラ松兄さんもカラ松兄さんのままだよ。なァんにも変わんないよ」
 一松が震える声で「ありがとう」と小さく零した。泣いてることを取り繕う余裕もなくなってしまったようだ。鼻をすする音が微かに聞こえる。
 自分に響いている分よりも何十倍も大きく十四松の言葉が響いているのだろうとカラ松は想像する。そのくらい行動を共にしていた二人だ。カラ松の知りえない背景が彼らにはあるに違いない。それが分かっているから迂闊に一松に感想を求めるようなことは言えない。涙を拭ってやることもできない。
 住宅街まで進むと、そこかしこから夕飯の香りが漂ってくる。今日の夕飯は何だろうか。
 突如として十四松が「あ!」と大声を上げて振り返った。
「どうした、十四松」
「ひとつ聞きたいことがあるんだ」
 ずい、と大きく距離を詰めてきた十四松はそこで初めて一松の様子に気づいたようだ。
「一松兄さん、泣いてんの?」
「泣いてない」
 一松はうつむいたまま返事をする。
「そっか」
 十四松は事も無げに言い放つ。
 一見粗雑に見える会話だが、これが彼らの日常なのだろう。カラ松が見てきていない部分は推しはかるしかない。
「そんなことより」十四松の瞳がくるりとカラ松を捉える。「兄さんたちはいつか家を出るの?」
「どういうことだ?」
「今、ずーっと考えてたんだ。一松兄さんが言ってた普通とか、なんで兄さんたちがそんなに思い詰めた顔してたんだろう、とか。で、考えてみた。もしかして兄さんたちはこのまま僕らの知らないところまで行っちゃうのかな、って。出ていく準備をしてるんじゃないのかな、って思ったんだ」
 カラ松は澄んだ瞳を見つめ返す。
 普段は何を考えているか分からないような幼さすらあるのに、相手の奥底まで見透かす大人びた目つきをしていた。
「そりゃあ僕だっていつかは家を出るかもしれないけど、そうじゃなくて、もっと近い『いつか』の話。気づいたら兄さんたちが家にいなくて、連絡もなくて、ってやつ。そうなったら寂しいなあ、と思って」
 駆け落ちしようか、と戯れで一松に提案したことを思い出した。十四松がその会話を聞いていたということではないだろう。察しが良いと簡単に片付けられない洞察力だ。
 やっぱり十四松が何を見て何を考えているか、俺にはよく分からない。
「近くても遠くても『いつか』は『いつか』だよ」と一松が答えた。「少なくとも明日じゃない」
「まるで禅問答だな」
 思わず感想が漏れた。二人分の視線が注がれる。しまった、口に挟むつもりはなかったのに。
「あ、僕それ知ってる! ソモサン! セッパ! ってやつでしょ?」
「ああ、トンチみたいなアレか」
 カラ松をよそに一松と十四松は問題を出し合い始めた。話には置いていかれたが二人が楽しそうならそれでいいか、とカラ松は楽しげな二つの背中に目を細めた。

◇ ◇ ◇

 月のない住宅街では都会にしては比較的星が見える。満天の星空には遠く足元にも及ばないが、虚しさや悔しさは感じない。幼い頃からこの夜空が普通なのだ。文句があるなら、とっとと家を出て見晴らしの良い丘の上にでも住めばいいだけの話だ。
 一松は細く煙を吐く。
 白煙は夜風にさらわれて霧散する。星の瞬きを遮ることはない。
 カラ松はいつもこうして何を考えているんだろう。ちかちかと輝く名前も知らない星々を見上げて一松は思いを馳せる。真似事をしたところで 本質まで分かるわけがない。誰かがやってきた気配を感じ、灰皿に煙草を押しつける。
「作麽生」
 出し抜けに一松が問うと「せ、説破」と戸惑いながらもカラ松が返した。
「『いつか』っていつだと思う?」
 瞼を閉じ、出ていくんじゃないかと尋ねた十四松を思い浮かべる。瞼の裏にはオレンジ色の視界の中で揺れる数字が焼き付いていた。
「本当に禅問答みたいだな」とカラ松が苦笑する。
「駆け落ちしようって言いだしたのお前だろ」
「そうだな。十四松に聞かれるまで忘れてたよ。トントン拍子に進んでしまったからな」
「十四松の受け入れの速さにはびびったよ」
「俺もだぜ。だからこそ、いつになるか分からないな」
「答えになってねえよ、それ」
「現実問題として考えてなかったんだ。仕方ないだろ」
 カラ松は肩を竦めた。あ、その顔なんかむかつくな。腰を下ろしたカラ松のつむじを見下ろす。
つむじはそのまま言葉を紡ぐ。
「いつかはいつかだ。お前の言った通り、少なくとも明日明後日の話じゃない。そこまで現実味を帯びた話じゃなかったろ」
 パッとカラ松が顔を上げた。かよわい星の灯りはカラ松の瞳の奥に吸い込まれてしまったようだ。夜より深い色を一松は見つめ返す。
「あ」カラ松が声を弾ませた。「星が綺麗だな」
「うん」
 一松はカラ松の隣に腰を下ろす。肩と肩が触れた。触れた部分からじわりと熱が広がっていく。
「俺らはさ、簡単に未来の話をするけど、未来って思ってるよりも遠い話ではないんだよな。実際に近くても遠くても未来は未来に過ぎないことは分かってる。だからいつかはいつかなんだ。それでも俺ら、いや、俺には覚悟が足りなかったんだと思った」
「覚悟?」
 カラ松の声が触れた肩からも伝わってくる。
「未来を生きる覚悟だよ。この生活がいつまでも続くわけじゃないんだ。遅かれ早かれ家を出てどこかで生活していかなきゃならない。駆け落ちじゃなくて、真っ当に独り立ちしなきゃいけない。そんな未来を生きる覚悟だよ」
 いつまでも自堕落な生活を続けるわけにはいかないだろう。誰が先になるにしろ、兄弟揃って家を出ていく日が来る。家を出て自分たちで生活していくには職が不可欠だ。真っ当な未来を一松はどこか夢物語であるように思っていた。
 まだ先の話だと高を括っていたのだ。
 カミングアウトしてそれで終わることができるのはドラマの世界だけだ。現実は途方もなく生活が続く。
「俺もなかったな、そんな覚悟。ただ漠然とお前と家を出て暮らしていくってことしか考えてなかった」
「十四松に言われて思い知らされたよ。俺らが生きてるのは空想の世界じゃなくて現実なんだってさ。たまたまこの期間は非日常的だけど、日常に生きてるんだ。堅実にやっていかなきゃあならない」
「……今日はえらく哲学的だ」
「話が抽象的だからそう感じるんじゃないの」
「かといって具体的な話はできないしなあ」
「この場合、どこからが具体的になるんだ」
「全部じゃないか? いつ出ていく、どこに住む、仕事はどうする、とか」
「仕事ねぇ」と一松は嘆息した。
 職に就く、一番具体的な取っ掛かりだろう。
 普通は改めて考えるまでもないことだ。世間の大多数の人間は進学して就職活動して、社会に出ていく。そこに曖昧な未来は存在しない。彼らにとっては来たるべきときが訪れたというだけだ。しかし、それを自分たちはわざわざ考えなければならない。ひどく億劫で、未来の話を遠くにやっている、抽象的にしている原因の最たるものだろう。
 どんな仕事がしたいか。あるいは、自分がしたいことは何か。そんなこと、微塵も考えたこともない。
「もし、好きな仕事を選んでいいので明日から働いてください、って言われたら何を選ぶ?」
 将来の夢は何ですか、と子どもに聞いているみたいだ。一松がハッと気づくも既に問いかけはカラ松にまで届いてしまっていた。幼稚な質問しかできないのは働くということが身近でないということだろう。
「フッ、人に夢を与える仕事だ」
「……正気か?」
「ああ、至ってまともだ」
「せめて具体的な職業を言えよ」
「ミュージシャン」
「夢は与えられそうだけどさあ」
 それこそ子どもに質問したみたいじゃないか。と一松は心の中で毒づいた。
 現実味の帯びた答えを期待していた面もあった。しかし同じ質問をされて現実的な解答ができるかというと一松にも自信はなかった。これが自分たちの現状なのだ。
「食い扶持を稼ぐって大変なんだな」
 一松は小さく漏らした。
「案外そうでもないと思うぜ」
 目を丸くした一松をよそに、カラ松は言葉を継いだ。
「きっと俺たちがびくびくしてるよりもあっさりと事は進むんじゃないか。食い扶持だけならアルバイトでも日雇いでもアテはあるだろ。このご時世、正社員になれたら最高だけどな。明日食うためだけの金なら何とかなるさ。ひとりで生きていくわけじゃないんだ。俺にはお前がいるし、お前には俺がいる、だろ?」
「脳みそ沸いてんじゃねえのかクソ松」
「フッ、褒め言葉として受け取っておこう。それにな、さっきも言ったが俺にも覚悟があったわけじゃない。だが、ケ・セラ・セラだぜ、一松」
「何語?」
 カラ松は思い出すかのように、静かに目を閉じた。
「何語だったかな。ともかく、なるようになるってことだ」
「そう」
 一松は隣にある、自分と同じ横顔に視線を移した。
 日常的に見慣れすぎているから気づかないが、つくづく同じ顔だと思う。その顔がこちらを向く。ゆっくりと映し出された顔はやはり自分の目の前の男と同じ造形をしていた。それぞれ違う人間だと認識しているからこそ、似通った顔立ちにえも言われぬ絶望を抱くのだ。瞳に映った男の瞳には何も映っていない。
 男が消えた、と思ったと同時に、時間が動き出したかのような感覚に襲われた。
「冷えるな」
 カラ松が両腕をさする。薄く笑うのと合わせて息が白く揺れた。
「中に入って、あったかいもんでも飲むか」
 どのくらい長い間外にいたのだろうか。頭のてっぺんから爪先まで冷えてしまっていた。一度自覚してしまうと全身が寒さを訴えてくる。室内の温かさを想像するだけで気が急く。
 結論の出ない考えを巡らすことよりも、今は冷えた体を温めることが先決だ。

SNSより先にサイト掲載。
かなり間があいてしまったせいでとっちらかっている感じが否めないし、やや短いね。


2016.07.09[Sat]