まるで砂糖菓子のように甘くて、ふわふわした感情だった。
これが、幸せなのかと思った。
カラ松と恋人関係になってからというものの、一松の生活はあっという間に薔薇色で染め上げられた。同じ空間にいる、ただそれだけで頭のてっぺんから足の先まで満たされるような心持ちになる。恋する乙女はこうも甘くてかぐわしい日々を過ごしているのかとすら一松は思った。
「おい、クソ松」
そんな華々しい日々の中にいても一松の口の悪さは治らない。罪悪感は多少あるが、関係が変わってすぐに態度を改めるというのもおかしな話だと一松は開き直っている。
「どうした?」
カラ松は鏡を伏せて一松に向き直った。良くも悪くもカラ松の態度は変わらない。変化を挙げるとするなら、雰囲気だろうか。パッと花が綻ぶように明るくなる。一松以外は気づいていないのか分からないが、今まで触れられていないので気づかれていないのだろう。
「メシ食いに行こう」
昼食時だが家には誰もいなかった。作るという選択肢はそもそも無いし、カップ麺で済ませるのも味気ない。それにせっかくカラ松と二人きりならば兄弟の追求もなく出掛けられる。あとは、カラ松が賛成してくれるだけだ。
「いいな。何が食いたい?」
あっさりとカラ松は賛成した。それもそうだ。断る理由が無い。もし一松が誘われる立場でも断らなかっただろう。
「ラーメン」
「醤油? 味噌?」
「豚骨」
「豚骨かあ。じゃあちょっと遠出だな」
一松はサンダルをつっかけてカラ松を振り返る。
「嫌?」
豚骨の気分ではなかったか、という意味も込めて靴を履いているカラ松のつむじに向かって尋ねた。
「嫌じゃない。腹減ってるなら近くがいいかと思って」
ああ、そっちか。
自分の気分よりも一松の空腹具合を気遣うカラ松の発想に一松は妙に納得した。優しいというか我がないというか。
「そんな死ぬほど腹減ってるわけじゃないし」
どうしてもつっけんどんな言い方になってしまうことに一松は自己嫌悪した。
気遣ってくれて嬉しいとか、ありがとうとか、遠くてもお前が一緒なら全然平気だとか、むしろちょっとしたデートみたいに思ってるとか、なにか一言でも言えたらいいのに。
「それならいいんだ。それに、ちょっと遠い方が一松と長く一緒にいれるから俺は嬉しい」
カラ松が玄関の戸を引くと外の光に包まれた。
眩しい。どうしてこいつは俺が言いたいことを、言いたかったことを易々と言ってのけるんだ。
一松は目を細めた。逆光でカラ松の表情は読めない。
「もしかして浮かれてるのは俺だけだったか?」
不安げな声に一松はハッとする。ようやく外の光に慣れてきた目が、心細そうに歪んだカラ松の表情を認識した。
いくら恋人になったからって、急に俺の思ってることが分かるわけないんだよな。黙ってたら分かんねえよな。
「……僕も、同じだから」
俺だってそんな急に素直になれるわけない。気の利く言葉なんてもっと言えるわけない。
再び自己嫌悪に陥る一松をよそに「そうか!」とカラ松が破顔した。
「じゃあ早く行こう!」
嬉しそうにカラ松が一松の袖を引く。敷居を一歩越えた瞬間、目の前が真っ白になった気がした。太陽が眩しいのか、それとも一松の腕を引く男が眩しいのか。一松はゆるゆると瞬きした。
僕の言動一つでこんなに一喜一憂するなら、もっと喜ばせるようなことがしたいな。
「そんなに急がなくったってラーメンは逃げねえし、それに――」
言えるだろうか。いや、言わなければ。ああ、どうしよう、汗が止まらない。
きょとんとした顔で「それに?」とカラ松は聞き返す。口を開きかけては閉じる一松を見て、カラ松はあやすような声でもう一度「それに、何だ?」と言葉の先を促した。
「色気もクソもねえけど、ちょっと幼稚かもしれないけど、僕はデートみたいなもんだって思ってるし。だから、その、ゆっくりでいいでしょ」
言ってやった! 俺だってやればできる!
達成感に小躍りしそうになる。いつの間にか握りこんでいたらしい手の平はじっとりと汗ばんでいて、そっとジャージで拭った。開いた左手がカラ松の右手に包まれる。汗拭いてよかった、と思ったが一松は素知らぬ顔をした。
「ここ、公道だけど。いいの? 手繋いで」
「誰か来るまではいいだろ?」カラ松がはにかんだ。「せっかくのデートなんだから」
色気も何もない、ただ昼食をとるためだけの外出をデートだとカラ松も扱ってくれた。それだけで一松の胸はいっぱいになった。するりとカラ松の手を解き、一松は指を絡め直した。
この喜びが指先から伝わってくれ。
やんわりと力を込めるとカラ松の耳の端が赤く染まった。
「この繋ぎ方は恥ずかしいな」
「言うなよ。俺だってちょっと恥ずかしい」
既に胸焼けしそうだ。
一松は自分の提案を後悔し始めた。
行きつけのラーメン屋のうちの一つであるその店は、平日の昼食時だからかサラリーマンが多かった。備え付けられているテレビの音声や、テーブル席に座るおっさんの雑談、店員の注文の声でそれなりに騒がしい。カウンターの隅に座る二人を気にする人などいなかった。
「あのさあ」
ラーメンを啜りながら、一松は口を開く。
「なあ、おい、クソ松」
反応を示さないカラ松の足をカウンターの下で蹴る。
「何するんだ!」
「話聞けっての」
「悪い。聞こえなかった」
一松はもう一度蹴り飛ばした。
「俺たちさ、まあ、一応付き合ってるわけじゃん」
付き合ってる、という単語を出した瞬間、カラ松が大仰に噎せた。あまりにも過剰に反応するものだから、もしかしたら付き合ってると思っているのは一松だけなのではないかと考えが脳裏をよぎる。
「あ、ああ、そうだな」
良かった。
一松は気を取り直して話を続ける。
「バレたら、洗いざらい吐かされそうだし今後揶揄されそうだと思うんだよね」
「特におそ松は延々とネタにしそうだな」
「でしょ? だから、他のやつらには黙っておきたくて」
付き合ってる相手がカラ松だろうと他の誰かだろうと、そもそも兄弟から抜け駆けしたことが露呈すれば吊し上げられるに決まっている。その後応援されるにしろ揶揄されるにしろ、恋人がいると兄弟に知られるのは気恥ずかしい。とにもかくにも他の兄弟には隠しておきたかった。これは一松だけではどうにもできないので、カラ松の意見も聞いておきたかった。
カラ松の表情をおそるおそる窺う。眉根を寄せて真剣に考えているようだった。恥ずかしいから兄弟には黙っておきたいというのは、やはり自分本位な言い分だっただろうか。
「一松がそうしたいなら、俺も黙っておくよ」
しばらくしてカラ松が静かに笑った。沈黙の間、何を考えていたのか一松には分からない。一松が口を開くよりも先に「早く食べないと麺伸びるぞ」とカラ松が言ったから詮索もできなかった。
釈然としないが、麺が伸びそうな事態の前では食べることを優先せざるをえなかった。
◇ ◇ ◇
夜更けにふと目を覚ますと一松の左側のスペースがぽっかりと空いていた。既視感を覚えながら、ベランダに出ると手すりに寄りかかるカラ松を見つけた。
「また見つかってしまったな」
くつくつとカラ松が身体を揺らす。背中の向こう側に揺れる白線を見つけて、それが煙草の煙だと気づくのに少し時間がかかった。
「起こしてくれればいいのに」
一松は肩が触れ合う距離まで近づいて、恨めしげな視線を投げかけた。一瞬目を泳がせてカラ松は微かな煙とともに言葉を吐いた。
「愛しのブラザーを瑠璃色の世界へ呼び覚ますなんて、いくら俺が罪な男――ギルトガイだからってできるわけない」
「……やり直し」
小さく溜息を零す。それを聞いてみるみるうちにカラ松の凛々しい眉が下がり、力なく笑顔を浮かべた。
「一松の寝顔を見てたら起こすのが申し訳なくて」
「最初からそう言えばいいんだよ、クソ松」
ふと天を仰ぐと満月が映った。想像していないまばゆさで思わず一松は目を細くする。
「つうか、やっぱり起こしてほしい」
一松は言葉を継ぐと触れ合った肩にぐっと体重をかけた。身じろぎひとつしないカラ松の安定さに安堵と同時に苛立ちを覚える。さらに体重を預けて、完全にカラ松に寄りかかるような体勢になる。肩から腕にかけてぴったりと触れ合い、体温がじわりと滲んでいく感覚に一松は愉悦を感じた。
「珍しく甘えただな」カラ松が零すように低く笑う。「次からは声掛けるようにするよ」
「別に、甘えてなんかねえよ」
ゆらゆらと月明かりに溶けていく紫煙を見つめたまま吐き捨てる。
甘えてるつもりじゃない。左側が寒かったし、カラ松の笑い声が振動になって自分の腕に伝わってくるのが心地いいからであって、甘えたいわけじゃない。
一松の心中を知ってか知らずか、カラ松は「そうか」と短く答えて煙を吸い込んだ。
「こうして一松と並んでるのは前にもあったな」
「そうだね。どこかの愚兄が眠れないせいでね」
わざと非難がましい口調で返す。
どこかの誰かが眠れなくなるたびに長時間外に出るものだから、体温を失った可哀想な弟は目が覚めてしまうんだよ。だって僕の隣は一人しかいないんだから、その一人がいなくなれば起きてしまうっていうもんだ。寂しいだなんてことは言わないけれど。
「さあ? 俺、眠れないなんて言ったかな」
カラ松が含んだように笑って煙を吐いた。一松は身体を離すと、その指から煙草を奪う。驚いたように振り向くカラ松と向かい合う形になり、視線が絡んだ。
デジャブのようにちかちかと夜空を湛えた瞳に、吸い込まれる感覚に陥る。
「あんなの言ったも同然だよ」
カラ松、と言いかけた名前は空気を震わせることはなかった。
初めて触れた唇は柔らかく、熱かった。そこを熱源にして熱が駆け巡ったかのように一瞬で体が火照る。目を開ければカラ松の瞳が視界いっぱいに広がって目が眩んだ。きっとそのはじけるように瞬く光に翻弄されたせいに違いない。
ぱちぱちと目をしばたかせ、カラ松はあ、とも、う、とも取れるような呻き声を上げた。反応する代わりに、奪い取った煙草を咥え煙を吸い込む。
あ、間接キスだ。
はた、と一松は気づく。
ほんの数分で直接も間接も奪ってしまった。
愉悦に浸りながら、未だ固まったままのカラ松に視線を移す。月明かりだけではいまいち顔色が分からない。反応からなんとなく汲み取れはするが、確証が欲しくて一松はすっと耳に手を伸ばした。
「ははっ、照れてら」
「……お前なあ」
そのまま頬まで手を滑らせる。手のひらに伝わってくる熱を堪能していたら、カラ松の手に顔を挟まれた。
「一松だって、俺のこと言えないじゃないか」
「あー、まあ、そうだね」
僕だってキスしようと思ってたわけじゃないし、予想以上にカラ松の唇があたたかくて柔らかかったからびっくりしたし、カラ松の反応も、その後うっかりしてしまった間接キスだって、総じて恥ずかしいし、照れる。余裕ぶれるわけない。
「じゃあ、もう一回しとく?」
自棄になって歯を見せると、カラ松が噴き出した。
「なんでそうなるんだよ」
むにむにと一松の頬を弄んでいた手を緩め、カラ松は煙草を取り返して灰皿に押し付ける。カラ松が「だって邪魔だろ」と呟くのを了承だと捉えて、頭を引き寄せた。鼻が触れる距離まで近づいて、カラ松が先に瞼を下ろした。期待に震える睫毛に視線を落として一松も同じように目を閉じた。さっきよりも堪能するつもりで唇を重ねる。やはり柔らかい。唇の感触を味わうように食む。うっすらと目を開けると、カラ松の瞳とかち合った。睫毛が影を落としたその奥に、ざわざわと波立つような熱情が見えた。きっと一松も同じような瞳をしているのだろう。
舌とか入れたら気持ちいいんだろうな。
一松は再び目を閉じてふわふわと思った。
そういえばなんでキスしてるんだっけ?
パッと浮かんだ疑問で我に返り、ゆっくりと体を離した。驚きと興奮がない交ぜになった感情をかみ殺したような表情を浮かべたカラ松が、何か言いたそうに唇をもぞもぞと動かしている。その言葉が声になる前に一松は先回りした。
「これで寝れるでしょ」
カラ松がきょとんとする。
「さっきは聞かれなかったから言わなかったけどさ、起こしてくれって言ったのはあんたをひとりにさせたくないからだよ。どうせ今日も寝れなくて一服してたんだろ? そんな夜にひとりでいるよりふたりでいた方がいいじゃんか、絶対。甘えたっていいんだよ。だって、その、恋人だろ」
どうにも照れくさくて、最後の方はぼそぼそと聞こえるか聞こえないかの音量になってしまった。改めて恋人だと宣言するのは思いの外勇気が必要らしい。それでも口に出した意図を伝えたくて、カラ松の反応は無視して一松は大きく息を吸った。
「お前は俺のこと弟だと思ってるだろうけど、だから甘えたりしないと思うんだけど、今は違うだろ。二人でいるときくらい、兄じゃなくていいだろ。ええと、つまり――」
「皆まで言うな、一松」
一松の言葉を遮って、カラ松は小さく笑った。
「弟に心配かけるなんて、と言いたいところだが違うな、恋人に野暮なことを言わせるなんて立つ瀬がないな」
カラ松が一松の肩に頭を預ける。すり、と甘えるように鼻先をすりよせて「すまないな」と小さく謝った。
「なんだよ」
「今日はよく眠れそうだ」
振動が肩から伝わってくる。
「それはよかった」
「でもこうして一松といられるなら眠れない夜も悪くないな」
一松は賛同を口にする代わりにカラ松の腰に手を回し、ぐっと力を込めた。
始めのうちはどちらかが眠れないことがきっかけだったが、回数を重ねていくごとに身を寄せ合って言葉を交わすことが楽しくなっていて、眠れる眠れないにかかわらず夜更けに布団を抜け出すことが増えていった。時間帯はまちまちで、草木も眠るような深い夜もあれば、ビルの隙間が次第に白んでいくようなときもあった。冷えるときは毛布にくるまり、ホットミルクも用意する。日中の出来事や普段から考えていること、自分の持っている知識など何でも話した。
話し終えたら布団に戻り、こっそりと手を繋いで眠る。手のひらから伝わる体温がじんわりと溶け合って、意識がまどろんでいく瞬間が一松はいっとう好きだった。幸か不幸か起きるときまで繋がれていることはなく、兄弟に見つかることはなかった。
夜ごとに、しんしんと幸せが積もっていく。
休日のせいだろうが駅前は人であふれていた。ニートに休日も平日もあったものではないが、人の多さで嫌というほど曜日を実感する。活気に満ちている人込みから逃げるように一松は背中を丸めた。
「ねえ次はあのお店に行こうよぉ」
不意に鼻につくような甘ったるい声が聞こえて、一松は顔をしかめた。目線だけ動かすと、自分よりやや若いだろう男女が腕を組んで歩くのが見えた。彼氏の手にはいくつか紙袋が握られていて、二人で買い物を楽しんでいるのだということは容易に想像がついた。彼女は時折甘えるように彼氏の腕に頬をすり、楽しそうに跳ねている。ああいうカップルを見るとすぐに僻んでしまう兄弟とは違い、周囲はどことなく微笑ましい雰囲気を醸していた。
日差しも相まって眩しく見える二人が通り過ぎるのを、一松は目を細めながら眺めた。
男女であれば白昼堂々と腕を組んでデートできるのか。白日のもとに、二人の幸せを惜しげもなく晒せるのか。
一松は足早にその場を去った。少しでも人のいない方へ、静かな方へ、でたらめに足を動かした。そうしなければ何をしでかすか自分でも分からなくなりそうだった。頭の中でもう一人の自分の声が反響する。
恋人ってなんだ? 幸せってなんなんだ? 俺は、俺とカラ松は果たして幸せなのか?
路地裏に入り、ずるずると座り込む。湿っぽい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
幸せにする、って言ったのに。今、カラ松は幸せなのか? こんな太陽のいない時間しか愛し合えないような関係で?
一松が俯くと、日の当たらない地面にぽつぽつと染みができた。
◇ ◇ ◇
誰もいない部屋でギターを爪弾く。部屋に溶け込んでいくような音がカラ松は好きだった。愛の数を数えるようにぽろん、ぽろんと優しく音を紡ぐ。
「誰もいねえの」
突然襖が開き、びーんと調子はずれな音が鳴った。声の主はカラ松を一瞥して、隣に陣取った。
「ねえってば」
「さあな」
「使えねえな」
一松はわざとらしく溜息をついた。言葉ほど苛立ったようには見えなかったので、返事の代わりに再び弦を弾いた。案の定言葉遊びの一種だったのか、カラ松の反応に怒りを示すこともなく一松は静かに目を閉じた。
ギターの音だけが響く部屋でふたりきり。午後の柔らかい日差しが部屋に降り注ぐ。ひとりでかき鳴らすのも好きだが、聞いてくれる人がいるというのはそれだけで満ち足りた心地になる。
「なんか歌ってよ」
ふわふわとした声で一松がねだる。
「リクエストはあるか?」
「任せる」
「じゃあ、愛しい人のためにとっておきを」
最初のコードは何だっただろうか、と記憶をたどっていると小さい声で「恥ずかしい奴」と聞こえた。
別に俺は恥ずかしくないんだがな。
こっそりと首を傾げて息を深く吸う。肺に広がる太陽と畳と、隣から微かに香る猫のにおいに、幸せだ、とカラ松はしみじみ思う。
「ほんと恥ずかしい奴」
フルコーラスを歌いきったカラ松に一松は唇を尖らせた。耳の端がほんのり色づいているところを見ると単純に照れ隠しなのだろう。
「そうか? 気持ちはたっぷり込めたぞ?」
「そういうところが恥ずかしいっつってんだろ」
言い終わるが早いか、一松がぴくりと耳をそばだてた。何事かと見守っていると窓の外からにゃあんと鳴き声が聞こえた。
直前まで会話してたのによく気づいたな。
一松が窓を開けると、するりと猫がその懐にもぐり込んだ。危なげなく一松が抱きとめると早速喉を鳴らして甘えている。
「レディーキラーならぬ、キャットキラーだな」
カラ松は指で銃を形づくり一松に向けて撃った。一松の頬が引き攣ったのを見て見ぬふりをする。その代わりに猫が楽しそうに鳴いた。
「この子は野良なのか?」
「半分ってところかな。人懐っこいから色んな人のところに行ってるみたい。僕らよりよっぽど要領良いかもね」
自嘲するように一松がせせら笑う。優秀なヒモということなのだろう。
「抱いてみる?」
「いいのか!」
ギターを横に置いて、おそるおそる腕を伸ばす。
「そんなに緊張しなくてもいいのに」
「い、いや力加減とか間違えそうで」
一松の言う通り人懐こいらしい猫は躊躇なくカラ松の腕の中に飛び込んだ。ふわふわとした毛並みが心地いい。あちこちに出入りしているだけに、野良の割に小奇麗にされている。一松の指示に従って猫を撫でると気持ちよさそうに喉を鳴らした。
「さすがだな、一松!」
カラ松のことが気に入ったのかじゃれつき始めた猫を見て、歓喜の声を上げる。嬉しさの余り飛び上がりそうになったが、猫を抱えている手前、ぐっとこらえた。
「どうも」
淡々と一松が返事をする。いつもなら嬉しさが滲んでいるの声が、どことなく上の空に聞こえてそっと一松を見る。猫を撫でる手つきは相も変わらず優しい。ただ、心ここにあらずというような遠い目をしている気がした。何か考え事でもしているのだろうか。
「どうかした?」
視線に気づいた一松が首を傾げる。いつもの一松だ。
「いや、何でもない」
さっきのは俺の考えすぎだったのだろうか? もし悩みがあるのなら力になってやりたいが、きっと今ここで俺が聞いても答えてはくれないんだろうな。
カラ松は疑問を一旦胸に留めることにし、今は一松と猫との時間を満喫することに専念した。
◇ ◇ ◇
「――まつ、一松」
揺さぶられる感覚で一松の意識は急浮上した。覚めやらぬ頭を叱咤して、まず瞼をこじ開ける。目を開けると辺りは暗い。誰かのいびきが聞こえるから夜中であることは違いない。
「一松? 悪いな、起こして」
声のする方に目を凝らすと、ぼんやりと人の輪郭が見えた。揺り起こされたことに文句の一つでも言おうと思ったが、起き抜けで声が出ない。
「……なに?」
掠れた声でそれだけ返すと「ちょっと寝られないから付き合ってほしいんだが」と言われた。
なんで? と思ったが以前に眠れなくてひとりで起きるくらいなら自分も起こしてほしいとぼやいたことをぼんやりと思い出した。
「おお、さすがに冷えるな。毛布を持ってきて正解だった」
たしかに、寒い。
カラ松と並んで毛布にくるまる。顔だけ夜風に晒されて、すっかり頭の芯まで覚醒してしまった。晴れ渡った夜空には名前も知らない星たちがいくつも揺らいでいた。
「で、今日はどうしたの」
きっと答えてはくれないだろうと思いつつ、カラ松に問う。眠れない理由は今までまともに答えてくれたことがない。カラ松は自分のこととなると大人びた笑みを浮かべて言葉を濁すのだ。
「べっ、別にどうかしたというわけじゃないんだ」
今夜はどうも違うらしい。
てっきりカラ松が眠れないから一松を起こしたのだと思い込んでいたが、落ち着かない態度を見ていると起こした理由は他にあるように思えた。
「寝られないんじゃないの」
「いや、そうじゃ……あっ、そうなんだ、寝られなかったんだよ」
あからさまに怪しい。何を隠しているのか。
「あんた隠し事向いてねえよ」
じとりと睨みつける。カラ松が小さく息を漏らした。観念したというふうに深呼吸し、カラ松は居ずまいを正した。
「一松に何か悩みでもあるんじゃないかと思って」
「……は?」
予想外の言葉に一松の語気が無意識に強くなる。
「あ、いや、無いなら無いでいいんだが、もし悩みがあるなら力になりたくて」
なんだ、そういうことか。
しどろもどろに弁明し始めたカラ松を横目に一松はこっそり胸を撫で下ろす。何か深刻な話だったらと、もしかしたら別れ話の類かもしれないと、ほんの少し危惧していたのだ。
「夜だったら、顔も見えないし、誰も聞いてないし、話がしやすいだろう? だから、その、もし良ければ聞かせてくれないか?」
悩みがある前提で話を進めるな、と切り捨てることもできた。しかし、一松にも心当たりがあったし、何よりカラ松の気迫に負けた。
一松は「悩みってほど大層なものじゃないけど」と前置きして話を切り出した。
「この間さ、すげえイチャイチャしてるカップルを見かけたんだよね。『彼氏くん、早く行こうよぉ』みたいに往来でべったべたに甘えてさ、まあ、一瞬殺意が芽生えたんだけど、それよりももっと、なんていうか、ショックでさ。俺たちって、一生ああいう風には振る舞えないんだな、って気づいたんだ」
「え、お前イチャイチャべたべたしたかったのか、すまん」
「違えよ、最後まで聞け。そうじゃなくて、俺とお前が二人で並んで歩いてたとしても恋人には見られない。仮に手を繋いでも――成人男性だし絵面きついけどな――せいぜい仲の良い兄弟止まりだ。一生かかったって他人から見たら俺とお前は恋人には見られないんだって気づいて、ちょっと、いや、かなりショックだった」
こんな関係でカラ松は幸せ? とは怖くて聞けなかった。否定されたら今すぐ飛び降りたいくらいだ。
「いいじゃないか」
一松の心境は露知らず、カラ松が悠然と答えた。
「恋人に見えなくったって、家族には見られるんだから」
「良くねえよ」
「そうか?」
「だって、一生だぜ? 俺たちは一生兄弟って枠組みからは抜け出せないみたいじゃないか」
「恋人に見られなくてもいいじゃないか」カラ松は繰り返した。「生まれてから死ぬまで、お前の言葉を借りるならそれこそ一生、俺たちは血を分けた兄弟だ。家族だ。家族でいることに、俺たちは障害がない、手続きも要らない、許しも要らない。誰がどう見たって家族だ! それでいいだろう?」
カラ松は一松の手を強く握った。
「だから俺は恋人に見られなくても構わないんだ」
「じゃあ、」一松の口が勝手に動いた。「カラ松は幸せ、なの」
「ああ。好きな人と想い合えて、こうして隣にいられて、俺は果報者だと思ってる」
カラ松の言葉が握られた手を通して沁みていくようだった。目の奥が熱くなる。
「僕も、僕も幸せだよ。でも、あんたはこんな夜中に噛みしめるようなのじゃなくて、太陽の下で曝け出せるような、そんな幸せを享受して欲しかったんだ」
「うん」
「もっと、胸張れるようなさ。それに、俺、幸せにする、って言ったし」
「そうだな、あれは嬉しかった」
「だからさ」一松はカラ松の手を握り返した。「せめて、みんなにはカミングアウトしよう」
一筋の光が差し込んだように感じた。
「ああ、分かった」
凜と眉を上げたカラ松の表情は、全てを覚悟して受け入れているように見えた。
カラ松の後ろに見える、少しずつ明るくなっていく空を一松は泣きそうな瞳で見つめ続けていた。
比較的甘め…たぶん。ようやく折り返し地点。