泣いた空

 雨が降る日の外出は、億劫ではあるが決して嫌いではない。街一面灰色に塗りたくられて、人もまばらな中ひとり傘を差して歩く。傘に当たる雨粒の音を聞きながらとりとめのないことをあれやこれや考える。これが意外と楽しい。 思考を巡らせるのに散歩はちょうどよい。傘が顔を隠してくれるから、兄弟に見つかることもないだろうし、もしひどい顔をしていても、余計な詮索をされることはないだろう。
 カラ松が一松への恋心を自覚してから随分と経った。
 一松との関係性はほとんど変わっていない。何かに付けて睨まれたり舌打ちされたりと、相変わらず当たりが強い。変わりない態度にカラ松は密かに胸を撫で下ろした。自分ではすんなり嚥下した感情だったが、隠しておくべきだということはすぐに分かった。同性で、かつ兄弟に向ける慕情だ。いくらイレギュラーばかりの兄弟とはいえ受け入れられるとは限らない。特に、一松のように真面目が根ざしている弟に拒絶されるのは目に見えていた。だからこそ、変わらない一松の態度に安堵する。侮蔑の眼差しを向けられることを想像するだけで背筋が凍る。
 みだりに想いを告げて一蹴されるくらいなら、何も告げずに兄弟のまま一生を終えてしまう方が良いに決まっている。決して結ばれることはないが、生涯無二の家族であるという事実だけで十分じゃないか。
 カラ松は唇を歪めた。
「よう」
 少し先から声を掛けられる。傘を傾けて声の主を確認すると一松だった。とくんと心臓が跳ねる。
「珍しいな、一松」
 平静を装って返事をする。声は裏返っていなかっただろうか。カラ松の動揺を察した素振りもなく一松は意外そうに声を上げた。
「そう? 俺、結構雨の日に外出るの好きなんだよね」
「そんなの初耳だ」
「聞かれないから言わないだけだよ。そんなのお互い様でしょ」ふと一松はカラ松の足元に目線を落とした。「お前、雨の日は外出ないタイプだと思ってた」
「なんでだ?」
「だって、靴は濡れるしズボンにも泥つくし。そういうの嫌いだと思ってた」
「そういうことか。雨が降ってるときは気に入ってる靴は履かないようにしてるな」
「なるほどね」
 ふっと一松が笑った。少し幼く見える笑顔にぼんやりと、好きだなあとカラ松は思った。
 じんわりと心の奥から温かくなるような感情に全身満たされている気分だ。これが愛情でなければ何を愛だと表現するのだと言いたくなるほどの感情に目が眩んだ。
「一松はこの後何か予定はあるか?」
 一松は気まぐれでカラ松に声を掛けたのかもしれないが、二人でゆっくりと話せる折角の時間を逃したくなかった。少しでも同じ時間を共有したかった。まるで初めて恋をした乙女のようだ、とカラ松は自嘲した。
「ないけど。ただの散歩だし」
「じゃあ、ちょっとコンビニに寄らないか?」
「いいけど、なんで」
「小腹が空いてさ。唐揚げが食べたい気分なんだ」
「ふうん。じゃあ俺ドーナツでも食おうかな」
「ああ、いいな。最近のコンビニは何でもうまいよな」
「そうそう。うまいから腹減ってなくても買っちゃう」
 角のコンビニより三丁目の方が品揃えが豊富だとか、大通りはホットスナックがうまいだとかとりとめのない話をしながら歩く。傘に隠れて一松の顔はあまり見えなかったが、今日も穏やかだなと思った。
 二人だけでいるとき、一松の態度が比較的穏やかだと気づいたのはカラ松が恋心を自覚して間もない頃だった。
 いつもと変わらない日々を過ごしてカラ松が居間に向かおうとしたタイミングで、おそ松と一松が揃って帰ってきた。二人はパチンコに行っていたらしく、おそ松は両手で抱えるほどの駄菓子を買って帰ってきていた。弟に分け与えるほど勝ったか、駄菓子を大量に買う分しか勝っていないかのどちらかだとカラ松は察した。
「カラ松ぅ、お兄ちゃんボロ勝ちしちゃってさー」
 どうやら前者らしい。おそ松がへらっと笑う。
「それなら寿司でも取るか」
「いや、これ買っちゃって寿司取るほど残ってないわ」
 おそ松は抱えた紙袋を見せつけるように持ち上げた。残ったお金は翌日の軍資金にすると息を巻きながら、紙袋からひょいひょいとお菓子を取り出してカラ松の手に押し付けた。
「そういうことで長男様からのお恵みだ! 感謝しろ愚弟ども!」
 居間に入るなりおそ松はお菓子を弟たちに押し付け始めた。押しつけがましいと怒鳴りつつも貰える物は何でも頂く兄弟だから楽しげな声が響く。
「おかえり、一松」
 喧騒に紛れてのそりと家に上がった一松に声を掛ける。驚いたのか、一松の肩がわずかに跳ねた。
「……ただいま」
「一松はどうだったんだ?」
 口に出してから、カラ松は後悔した。見たところ一松は手ぶらで、おそ松と合同で出資したのでなければ大して勝っていないことも容易に想像できる。気遣いが足りなかった。一松ならなおのこと怒りかねない。
 どう言い繕ったものかと慌てるカラ松に、一松はポケットから板チョコを取り出した。
「これ、やる」
 目の前に差し出されたチョコレートをおずおずと受け取った。
「えっ?」
「……それくらいしか勝てなかったんだよ。察しろよクソ松」
 目が合ったと思った瞬間、すぐに逸らされてしまった。
 そのまま一松は居間の喧噪に消えてしまったが、カラ松はひとり廊下に取り残された。
 言葉とは裏腹に、一瞬だけ見た一松の目はまるで凪いだ海のように穏やかだった。少し、少しだけ期待してしまいたくなるほどに優しい瞳をしていた。
 ――期待?
 俺は何に期待しているんだろう? この想いが報われること? 一松に受け入れてもらえること?
「……無謀だな」
「何か言った?」
 うっかり声に出ていたらしい。急速に意識を引き戻されたカラ松は慌てて「何でもない」と取り繕った。ぱらぱらと傘を叩く雨音がやけに耳についた。
「なぜ、こう、買おうと思ってたのと違うものを買ってしまうんだろうな」
「同感」
 揃って買ってしまった肉まんを見つめる。買おうと思っていたものは違ったのに。
「雨、強いな」と一松が空を見上げた。随分暗くなった空からは大量の雨粒が降っていた。ぶるりと身体が震える。
「弱まるまで雨宿りしていくか」
「そうだね」一松はおもむろに包装紙をめくる。「まあ弱まるかどうかは分からないけど」
「きっと、じきに弱まるさ」
 コンビニの軒先を借りて黙って肉まんを頬張る。雨音と時折通る車の音だけが聞こえる。雨は弱まる気配がない。
「もう帰ろう」
 包装紙をぐしゃぐしゃに丸めて一松が提案した。これ以上待ってもしょうがないと言外に示していた。
「そうだな」
 カラ松は言葉少なに同意して、傘を広げた。雨は強いが、家までの距離はそう遠くない。足元への被害も少なくて済むかもしれないと思った。
「げ」
「どうした、一松」
「傘パクられた」
 一松が眉間に皺を寄せ舌打ちした。人一人殺せそうな顔してるぞ、とはカラ松には口が裂けても言えなかった。
「まあ、ビニ傘だから仕方ねえか」
 深く溜息をつくと、カラ松に視線を移した。
「おい、クソ松」
「フッ言わずとも分かるさ。大船に乗ったつもりで兄の元へ飛び込んでくるがいい!」
 カラ松が腕を広げると、一松は露骨に嫌そうな表情を浮かべながら傘に入った。
「泥船の間違いだろ。テメエしっかり傘持てよ」
 膝でカラ松の腿を蹴りながら一松は「濡らしたら殺す」と続けた。
「そこまで言うなら買えばいいのに」
「は? どこぞのコソ泥が弁償してくれるならまだしも、自分の財布痛めてまで買い直したくはないね。家もすぐそこだし、クソ松兄さんが傘入れてくれるんだし」
「分かった。分かったから蹴るのやめてくれないか」
 憤慨する一松を宥める。傘がそれなりに大きくて良かった。成人男性が二人で一つの傘を共有するのはなかなか狭い。一松が濡れてしまわないように傘をこっそり傾ける。代わりにカラ松の肩がじっとりと濡れていったが、一松が濡れずに済むならそれでいいかと思った。

「うわっ、お前らこんな雨の中出掛けてたの? バカだねぇ」
 帰宅してすぐ遭遇したおそ松に呆れ果てられた。
「しかもカラ松、その肩どうしたの。片方だけびしょびしょじゃん。つうか、お前ら足元ずぶ濡れかよ。床汚すとチョロ松が怖いぞ〜? ちゃんと拭いとけよ」
 おそ松は一方的に喋るだけ喋って、二階へ上がっていった。期待はしていなかったがタオルくらい持ってきてほしかった。おそ松を無言で見送ってから、一松が口を開いた。
「なんで肩濡れてるの」
「女神の涙を拭こうにもハンカチがなくてな」
「……いや、何言ってんのお前」
 わざとらしく息を吐いた一松は濡れた足で家に上がった。板張りの廊下に染みができる。
「おい、何ぼさっとしてんの。さっさと着替えんぞ」
「だって床が濡れるだろ」
「んなもん後で拭きゃあいいんだから、早く上がれっつってんの」
 一松に乱暴に腕を引かれる。履いていた靴が乱雑に玄関に転がった。一歩進むたびに、ぐっしょりと濡れた靴下から水が染み出る。気持ち悪い、早く脱いでしまいたい。二人分の足跡が廊下に増えていく。一松は引っ張ったままの勢いでカラ松を脱衣所に放り込んだ。
「ん」
 素早く乾いたタオルをカラ松に投げて寄越した。一松は裾の濡れたジャージをさっさと脱ぎ捨てると、簡単に自分の足を拭いた。
「……着替え取ってくる」
 カラ松を一瞥してから一松は脱衣所を出た。だん、だんと乱暴に階段を上がる音が聞こえる。何やら怒っているようだが、何が一松の怒りに触れたのかが分からない。やはり感情の起伏が掴めない、とカラ松は濡れた服を脱ぎながら思った。
「適当に取ってきたけどこれでいいでしょ」
 出ていったときと同じように足音荒く、一松が戻ってきた。パーカーとズボンを胸に押し付けられる。
「ああ。悪いな」
「別に、大したことじゃない」
 ついと一松が顔を逸らす。なんだかんだ言って優しい奴だ。カラ松は目を細めた。
 ズボンを履いて、ふとカラ松が視線を動かすと肌色が視界に飛び込んできた。
「一松、お前、着替えてこなかったのか?」
 カラ松の言葉に、きょとんとした表情を浮かべて一松が自分の足元を見る。
「え? ああ、忘れてた」
 平坦な調子で一松が踵を返す。出ていこうとする背中にカラ松は声を掛ける。
「俺の分急いで持ってきてくれたんだな。ありがとう」
 一松は何も言わなかった。

 その日も雨が降っていた。
 カラ松は窓辺でぼんやりと外を眺める一松を見つけた。開けられた窓からはひやりとした湿っぽい風が流れてくる。
「濡れないか?」
 カラ松は言葉少なに尋ねる。
「思ってるほど濡れない」
 視線を動かさずに一松が答えた。「そうか」と返して、カラ松はソファに腰を下ろす。一松の背中越しに外を見る。白線が窓枠の中いっぱいに引かれているような雨だ。
「今日は散歩に行かないの」
 雨音のようにぽつんと一松が聞いてきた。残念ながら表情は見えない。
「行かない」
「そう」
「雨が降るたびに出掛けるわけじゃないからな」
「まあ、そうだよね」
「お前こそ出掛けないのか?」
「僕も今日は気分じゃない」
「そうか」
 会話が途切れる。代わりに部屋の中が雨音で満ちた。
 まるで世界から二人だけ切り離されてしまったような気分だとカラ松は思う。
「……なあ、一松」
「なに」
「ずっと外を見てるが、何か見えるのか?」
「面白いものは何もないよ。強いて言うなら雨が見える」
「そうか。いや、てっきり何か見えるのかと」
「見てるっていうより、聞いてる方が近い」
「聞いてる? 雨の音をか?」
「そう。好きなんだ」
「……初耳だぞ」
「いや、だから聞かれないから言ってないだけだって。いちいち言わないでしょ、俺、雨の音好きなんだーって」
「まあ、そうだが……」
 さすがのカラ松も同じような会話をした覚えはあった。それでも一松を責めるような言い方になってしまう。だって一松の好きなものは一つでも多く知りたい。こればかりは好きになってしまった弱みだと思う。
「なんで雨の音が好きなんだ?」
「……お前、最近質問ばっかりしてない?」
 呆れながら一松が振り向く。ようやく目が合った。体の奥底が喜びに燃えたように感じた。
「すまない。迷惑だったか?」
「うーん、面倒だけど、迷惑じゃない、かな。うん、迷惑ではない。普通の会話してるなーと思って」
「どういうことだ?」
「そういうところだよ。お前がぽんと素直に質問してきたり、言葉を返したりするのが珍しいなってびっくりしてるんだよ、俺は」
「自分ではよく分からないな」
「自覚してる方が怖いよ」
 一松は口元を緩めた。そして再び外を見やって口を開いた。
「雨の音、落ち着くってのもあるけど、なんとなく、孤独感に似てると思って」
 静かに目を細めた一松の横顔が憂いを帯びていてカラ松は目が離せなかった。淋しさと諦観を湛えたような表情だった。
「なるほど、……静寂と孤独か」
「あ?」
「フッ、弟すらも魅了してしまうとはやはり俺はギルトガイだ」
「テメエと一緒にすんじゃねえぞクソ松!」
 一松が投げた目覚まし時計が額にクリーンヒットした。
「ケッ、煙草買いに行ってくる。ついてくんじゃねえぞ」
 バン、と乱暴に襖が閉められる。上手いことが言えたと思ったんだが、どうやら一松のお気に召さなかったらしい。カラ松は額をさすりながら、窓の外を覗いた。宣言通り一松は出掛けるようだった。
 あの丸まった背を抱き締められたら、一松の淋しさは癒えるだろうか。報われるはずのない想いだが、この愛情で一松の孤独を満たすことはできないのだろうか。
 カラ松は、一松が角を曲がるまでその背中を見送った。

 この想いを伝えたら気持ち悪いと拒絶されるだろうか。それとも存在ごと彼の中から抹殺されるだろうか。それとも、万が一、なんてことはあるのだろうか。 
 カラ松はすっかり雨の上がった夕暮れの中、静かに煙を吐く。じわりと全てのものを赤く染める夕陽は白煙すらも例外なく赤く染めてしまった。物干し竿に並ぶ色違いのパーカーも赤く染まって、青も紫も違いはなくなってしまった。色という記号を使っても、この陽の中ではせいぜい三分の一の確率でしか見分けられないかもしれない。六つ子なんてそんなものだろう、と少し空しくなる。カラ松は自嘲気味に微笑んで、ゆるゆると思考の端を捉える。
 万が一この想いが報われたら、万が一、一松が受け入れてくれたら、その先はどうなる? 同性で兄弟だ。一卵性の六つ子というオマケまでついている。今は良くても将来はどうなる? 法的に結ばれることはなく、子を残せるわけでもなく、社会的に認められるものでもない。自分達はそれで良くても、他の兄弟や両親は認めてくれるだろうか、許してくれるだろうか。
 いや、そんなもしも話を考えること自体ナンセンスかもしれない。
 帳の下りてきた空を見上げて、カラ松は煙草の火を揉み消した。

◇ ◇ ◇

「ちょっと散歩しないか」
 珍しく神妙な顔をしたカラ松が誘ってきた。一松はちらりと外を見る。
「別にいいよ」
 外は晴天だった。
 カラ松との散歩自体は初めてではない。ただ、家にいるときにわざわざ誘われて行くというのは初めてだった。案外悪い気はしない。カラ松が変なことを言い出さない限りはのんびりとした時間が過ぎるだけで、一松は密かにそれを気に入っていた。
 一松は隣を歩くカラ松をそっと盗み見たが、何か考え込むような表情を浮かべて黙り込んだままだった。敢えて誘ったのはきっと目的があってのことだと思うが、表情からは何も読めず、何より一松には心当たりがない。場を和ませるような言葉も浮かばないので、カラ松が口を開くまでじっと待つしかなかった。
「一松、話があるんだ」
 意を決したようにカラ松が口火を切った。黙々と歩いているうちに河川敷まで着いてしまった。カラ松の向こう側で川面がちらちらと光って一松は思わず目を細める。
「……なに、改まってどうしたの」
 カラ松が歩みを止めるのに合わせて一松も足を止める。僅かに首を動かすとカラ松と視線が絡んだ。思い詰めたような顔に背筋が強張る。一松は思わず目を伏せた。
「俺、一松のこと好きなんだ」
 聞き返すための声も出せず、一松はただ目を丸くしてカラ松を見つめた。
「――そうだな、混乱するのも無理はないよな。……もう少し歩こうか。いいか?」
 乾いた笑い声を零し、カラ松は一松の顔を覗き込んだ。状況は飲み込めていないが、一松は首を縦に振るしかなかった。カラ松の声が震えていたことに気付かないほど一松は愚鈍でない。
 歩く速度に合わせるようにカラ松がぽつぽつと語り始めた。
「先に断っておくが、俺の話は最後まで聞いてくれなくていい。無理だと思ったら、口を挟むなり殴るなりして止めてくれ。俺を置いて帰ったって構わない」
 一松は黙って頷いた。
「結論だけ簡潔に言えば、俺はお前が好きだ。ライクじゃなくてラブの方、恋愛感情の方で。お前の好きなところを挙げろ、と言われたらきりがない。それくらいには好きだ。でも、俺はお前に付き合ってくれなんて言わない」
 カラ松の眉がハの字に下がる。困ったような笑顔がどこか大人びて見えた。
「ああ、そんな顔をしないでくれ。何故だ、って話だろう? だって俺はお前の兄で、お前は弟だからだ。それに正直、俺は一松がここまで聞いてくれるなんて思ってなかったんだ」
「なんで」
 喉の奥が貼り付くようで上手く声が出ない。ようやく絞り出せた声は掠れていたがカラ松には届いたようだ。
「気持ち悪いって言うかと思ってた」
「同性だし、兄弟だから?」
「そう。そうだよ、一松。同性の兄弟に向けるべき感情じゃない」
「じゃあなんで言ったの」
 カラ松が息を飲んだ。再び足が止まる。
「期待したから」
「期待?」
「万に一つでも、拒絶されない未来を期待したからだ」
 何かがカラ松の中で切れる音がした。
「俺のこの感情を、否定されない可能性を諦められなかったからだ。殺すも生かすも一松に委ねようとしたからだ。ずるい兄だと、詰ってくれて構わない。自己中心的な男だと嗤ってくれて構わない。俺は、俺のエゴのためだけに、呼び出したんだ。思い上がっていたんだ。俺は、もしかしたら、お前の淋しさを埋められるかもしれないと。もしかしたら受け入れてもらえるかもしれないと」
 堰を切ったように捲し立てたカラ松は我に返り、小さく謝った。
「すまない。でも――」
 カラ松は何かを言い澱んで口を噤んだ。
「ここまできたら最後まで言えよ」
「……そうだな。高望みしてもいいなら、俺は一松が猫を愛するように愛されたいと思うし、お前の孤独を癒せる存在になりたいと思う。付き合うだなんて、恋人になりたいだなんて簡単に言えないけど、せめて一松と同じ時間を、感情を共有できたら、って思う」
 ぱたぱたとカラ松の頬に水滴が落ちる。何だろう、と思う前に一松の頬にも水滴の当たる感触がした。空を見上げると薄雲のかかった青空から雨が降ってくる。
「いいよ」
 カラ松の頬を流れる雫はどちらなのだろうと一松はぼんやりと考えた。
「気持ち悪いだなんて全く思わなかった。むしろそんな風に想ってもらえて嬉しいというか。だから、その、いいよ」
 上手い言葉が見つからず、一松はおずおずと右手を差し出す。意図が伝わったのか、カラ松は破顔してその手を握った。
「えっと、よろしくな、一松」
「うん」
 カラ松の嬉しそうな雰囲気に当てられて、一松はようやく自分の中に潜んでいた感情に名前を付けることができた。今までの自分の発想や行動の原因が全て帰着して何となく気恥ずかしい。
「あ、雨上がったな」
 ぱらぱらと降り注ぐ感触が消えたと思ったと同時にカラ松が呟いた。
「天気雨だったね」
「珍しいよな。虹出てるかな」
「どうだろうね、日も暮れてきたし」
「出てたとしても分からなさそうだな」
 笑うカラ松の横顔に一松は目を奪われる。
 初めて兄を、自分と同じ顔をした兄弟を、美しいと思った。途方もなく幸せだと思った。
 何故かは一松自身も分からなかった。それでも突如として湧き上がった感情は本物だという自信はあった。
「カラ松」
「どうした?」
 夕焼けを映した瞳からはカラ松の愛情が溢れていて、改めて恋人という関係に変わった実感が身体の内側からせりあがってきた。
「俺もお前のこと好きだったみたいだ」
「えっ」
 視線を落とすと足元の水たまりに波紋が広がったのが見えた。
「幸せにするよ、約束する」
 震える声でやっと呟くと「ありがとう」と同じように震えた声が降ってきた。

天泣=狐の嫁入り=天気雨
今回出てくる作品「雨の音/高岡和子」

2016.04.15
pixiv・pictBLand 2016.03.08