世界一遠くて近い

 青は世界で一番遠い色だとどこかの誰かが言っていた。
 確かに青空に手が届くことはないし、青海原も掬ってしまえばただの透き通った水だ。海水に色が付いていても気持ちが悪いし、空気が青かったら気持ち悪いどころか前が見えなくて辟易としていただろう。理屈ではそう切り捨てられるのだが、感覚としては青は遠い色だ。
 一松にとってもそれは例外ではなかった。

 一松は屋根瓦の上に寝そべって、青空に向かっててを伸ばしてみた。もちろん掴めるものはそこら辺の空気しかない。ぐっと拳に力を入れる。手の中には何も無く、爪が食い込んだ。
「一松兄さん、ご飯できたってー!」
 窓から顔を覗かせた十四松が一松の名を呼んだ。おざなりに返事をしてパッと手を広げる。案の定手の平には爪の痕が残っていた。溜息をついて、ゆっくりと立ち上がる。家の中に入ると食欲を刺激するような香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。おいしそうな匂いがするというだけで腹の虫が急に主張を始めた。今日の昼食は何だろうか。先ほどまで考えていたことなどとうに忘れて、一松は軽やかな足取りで階段を下りた。
 最後の一段に足をかけたとき、少し先の床が軋む音がした。視線を動かすと先ほどまで鮮明に思い浮かべていた色が視界に入った。
「昼飯食うよな? お前の分も用意してあるぞ」
 カラ松がにっこりと笑いかけた。ぴくりと自分の頬が強張る。どんな表情になったのか自分では分からないが目の前のカラ松が小さく息を飲んだので、良い表情ではないだろう。
 いちいち俺なんかに構うことはないのに。
 固まったままのカラ松を無視して居間に入ると弟二人が既に食べ始めていた。
「遅いよ、一松兄さん。僕らもう食べちゃってるよ」トド松が悪びれもせずに言う。
「別にいいけど」
 一松が腰を下ろしたのと同じタイミングでカラ松が居間に入ってきた。カラ松は何も言わずに定位置に座る。
「おそ松兄さんとチョロ松兄さんは?」
 トド松がきょろきょろと見渡して誰ともなく尋ねる。
「おそ松兄さんは今日新台入替だって出て行ったよ!」
「チョロ松はハロワじゃないか?」
 十四松とカラ松がそれぞれ答えた。いつもと変わらない答えにトド松は「ふうん」とだけ返して箸を再び動かし始めた。興味がないなら聞くなよと思ったが、そう言ったところで建設的な会話が始まるとも思えずに結局一松も黙々と箸を動かすしかなかった。
 会話もなく箸と茶碗が触れ合う音だけがする。沈黙すら落ち着くのは兄弟だからだろうか。
「ごちそうさまでした!」
 最初に食べ終わった十四松がばたばたと食器を下げて出て行く。あっという間に玄関の戸が引かれた音がして「いってきマッスルマッスル」という声が居間まで届いた。居間に残った一松たちは手を止め玄関の方を見やったが、戸が閉まった音を聞いて誰ともなく視線を戻した。
「僕も食べ終わったら出ていくから」
 箸を置いてトド松が宣言した。
「何、デート?」
「別にそんなんじゃないけど、一松兄さんには関係ないでしょ」
 トド松の正論に眉根が寄る。
「フッ……ならば俺も乙女の祝福を享受すべく足を踏み出すとしようか」
 こいつは何を言っているんだ。
 一松の表情を窺ったトド松が一瞬目を見開いた。瞬時に表情を取り繕って「ほんとイッタいよね」とカラ松に突っ込んだ。
 トド松も飽きずによくクソ松に付き合えるもんだ。俺には無理だ。
 カラ松はトド松の言葉に眉を僅かに下げた。まるで傷ついたというような顔をしていた。全く理解できない。低く舌打ちが漏れる。
 食後特に外に出る気も起きずに一松は部屋のソファに寝そべる。窓で切り取られた空は変わらず青いままで、思わず顔を顰めた。
 例えば虹は青と紫は藍を挟んではいるものの隣と言っても差し支えはないだろう、近しくあるべき色だ。加えて就寝時はすぐ隣で寝ていることを考えれば、比喩ではなく物理的に近しい関係だ。それでも一松はカラ松のことが全く理解できなかった。他の兄弟のことならば、一から十までと言わずともせめて五か六くらいは理解できたり共感できたりするのにもかかわらず、カラ松のこととなるとてんで理解も共感すらもできないのだ。理解そのものを諦めて甘受できれば最善だったが、一松はそれもできなかった。
 一松にとって最も不可解な点は、カラ松の底抜けに楽観的で肯定的な思考回路だ。僅かでも共通点があれば良かっただろうが、残念ながらカラ松は一松とは見事に真逆の思考回路だった。
 癪だけど、あの明るさは空に似てるかもしれないな。
 雲一つなく突き抜けるような青に一松は延々と思考を巡らせる。
 理解したいというより理解してみたい。同じ六つ子のくせに、俺と揃ってクズのくせに、あんなに真っ直ぐ人生を謳歌しているその思考を。その根底を。
 ぼんやりと空を眺めているうちに、空に吸い込まれていく錯覚に陥った。
 この感情は一種の好奇心なのかもしれない。
 息を細く吐いて一松は目を閉じた。

 部屋に戻ったカラ松は、ソファで一松が丸まっているのを見つけた。燦々と日差しを浴びながらも心地良さそうに眠る様子はまるで猫のようだ。
 いつもこれくらい穏やかならいいのに。
 起きる気配のない一松の前髪を撫でるように手で梳く。自分と同じはずの髪は整えていないせいかより柔らかく感じた。普段の態度の悪さは鳴りを潜め、幼さを感じさせる寝顔にカラ松の目が細くなる。
 お節介かもしれないが風邪をひくといけない。
 一松を起こしてしまわないように細心の注意を払いながら、静かに毛布を掛ける。日があるとはいえ少し寒かったのか、一松の身体から丸みが少しほぐれたように見えた。
「カラ松兄さんもほんとよくやるよね」
 出掛けるところなのか帽子をかぶったトド松に声を掛けられる。声量が抑えられているのは一松が寝ていることに気づいたからだろう。毛布の下で丸まる一松を見てトド松は「猫みたいだ」と呟いた。カラ松は小さく同意した。
「このままだと風邪を引いてしまいそうだからな」
「そういうところ、カラ松兄さんらしいと思うよ」トド松は肩を竦めた。「一松兄さんにいつもあんなに邪険に扱われて、それでも兄貴面してるのってどうなの?」
 カラ松は問いがうまく飲み込めなかった。
「どう、って言われてもなあ」
 質問の意図が全く伝わってないことに気づいたのか、トド松がぴくりと頬を攣らせる。
「じゃあ言い方を変えるけど、いつも酷い扱いなのに構うのはなんで?」
「そうだな……」
 次はすんなり理解できた問いの答えを探す。カラ松自身今まで意識したことのない発想だった。
 なぜ俺が一松に構うのか? そんなことを考えるのは初めてだ。
「一松にだけ特別構っているつもりはないんだがな。ただ、まあ、気にかかる弟ではあるよ」
 トド松に答えるというよりも自問自答のように途切れ途切れにカラ松は自分の考えを紡いだ。
 そうだ、一松はなぜか兄弟の中で一番気にかかる。理由はまだ分からない。もしかしたら俺が意識していないだけできっと理由があるんだろう。普段から人の気持ちを察するだとか行動の裏を読むというのは得意ではないが、他人だけでなく自分のこともよく分かっていないらしい。
 カラ松は顎に手を当て、考えを巡らせようとする。しかし、トド松の溜息で意識は現実に引き戻された。
「ほんっと、らしいねぇ」
 トド松はやれやれと首を振った。らしい、という言葉は今だけで二度も出てきた。一体どういうことなのだろうか。真意を問おうとするも、トド松は会話を終わらせたつもりらしく部屋の襖に手をかけていた。
 慌ててトド松の名を呼ぶと、きょとんとした顔で見つめられた。
「何?」
「らしい、ってどういうことだ?」
 カラ松の問いにトド松は眉根を寄せた。
「なんでわざわざ聞くかなあ。強いて言うなら、カラ松兄さんが底なしのお人好しってことだよ」
 今度こそ会話は終わりだとでも言うように、トド松はカラ松の返事を聞くことなく部屋を出た。「いってきまーす」と声の後、玄関の戸が閉められた音が聞こえる。カラ松は規則正しい寝息だけ聞こえる部屋に一人取り残された。
 底なしのお人好し、か。
 トド松に言われた言葉を反芻する。普段がどんな扱いだろうと、兄弟を愛することに理由は必要ないとカラ松は思っていた。その姿勢はトド松から見たら理解できないことで、お人好しに値するらしい。
 ふと視線を動かすと、窓の外には青空が広がっていて、太陽の光を浴びながら物思いに耽るのも一興だな、と思いつく。ポケットの中身を確認してから、ギターを抱えて屋根に上る。己を高めるためには己を見つめ直すことも必要だ。空を見上げると太陽すらも自分の思いつきを賛美しているかのように思えた。
 今日は良い午後になりそうだ。
 カラ松は屋根瓦に腰かけ、早速弦を爪弾いた。曲を演奏するのではなく赴くままに旋律を奏でる。
 サンシャインを浴びながら、ギターを弾く、俺。なかなかイカすじゃないか。
 最高にクールな状況に陶酔しながらも、カラ松は中断されていた思考を再開する。
 なぜ一松に構うのか。この問いに対しては、一松が一番気にかかる弟だからだ、という結論に至った。では、なぜ一松が一番気にかかるのか。そればかりはまだ答えが出ない。俺は兄弟は全員愛している。加えて、同い年ではあるものの、弟というものは総じて構いたくなってしまう。その点では、概ねおそ松と価値観が似ている。トド松の言っていた通り、日頃の一松はすぐ手を出すし口も悪い。それでも一松が猫に対して優しいことを俺は知っているし、兄弟想いだと思っている。俺に対しての態度がどうであれ、俺にとって大切な兄弟の一人であることに変わらない。だったら構わないわけがない。
「フッ、やはり俺には考え事は向かないらしい」
 ふっと息をついて手を止める。ギターを落としてしまわないように抱えなおして、ポケットから煙草とライターを取り出す。
 ぐるぐると考え込むのはどうも苦手だ。疲れる。
 吐いた煙の先を辿ると、太陽が傾き始めたことに気が付いた。思っていたよりも長い時間考え込んでいたようだ。疲れてしまうのも当然だろう。ぼんやりと煙が霧散するのを眺める。徐々に空の端から色が変わり始めていた。
 黄昏の中、哀愁を漂わせる俺、か。
 煙草を咥えたまま、ギターを弦に再び手をかける。弾き語りに憧れて練習を重ね、今では譜面がなくてもすっかり弾けるようになった曲がいくつかある。当時は誰かに聞いてほしくて練習していたはずだが、弾けるようになっただけで満足してしまい、以来一人のときに口ずさむ程度だ。それでも最後まで弾き終わったときは充足感に身震いしてしまう。
 満足するまで弾き終えた頃には日が落ち始めていた。橙から紫へのグラデーションが美しい。
 紫。
 カラ松はふと一松のことを思い出した。
 今日は一日中一松のことを考えていた気がするな。
 静かに笑みを浮かべ、カラ松は屋根から下りた。

◇ ◇ ◇

 好奇心だと感情にラベルをつけてしまえば、どこか解決した気になってしまうのが人情だろう。カラ松へ抱いていた苛立ちが不可解からくるものならば、不本意ではあるが、観察してみれば何かが変わるだろう、と一松は結論付けていた。
 おかげで一松は普段からすればいくらか晴れやかな気分で親友である猫と戯れていた。猫を撫でる手は止めずにカラ松を盗み見る。
 カラ松は手鏡を見つめながら悦に入っているようだった。既にカラ松の行動は理解できない範疇で、人知れず一松は肩を落とした。思いついた矢先からこの調子では気が滅入ってしまう。同じ顔はあと五つもあるというのに、一体どうして自分の顔をしげしげと眺められるのだろうか。
「どうかしたのか、一松」
 一松の視線に気が付いたカラ松が声を掛けた。気づかれないように盗み見ていたつもりが、凝視してしまったらしい。
「うるせえ、何でもねえよ」
 低く唸るように返す。カラ松がキュッと唇を結んだのを見て、思わず目を逸らした。咄嗟に話しかけられると攻撃的な態度を取ってしまう。習慣とは恐ろしいものだ。
 苛立ちの原因は分かってもそんなに簡単に態度を改められるわけないか。
 傷つけてしまったか、と恐る恐る視線をカラ松に戻すと、カラ松の視線はとっくに鏡の中の自分に移っていた。
 一瞬でも心配した俺がバカだった。そうだ、こいつはこういう奴だった。
 自分の行動をせせら笑うかのように一松は短く息を零した。
「ねえ、お前ら暇?」
 居間に入ってくるなりチョロ松が尋ねた。居間には一松とカラ松しかいないため、チョロ松の言うお前らが誰を指しているか聞き返さずとも分かる。
 どうせ面倒事だな。
 一松は巻き込まれまいと返事はせずにチョロ松の次の言葉を待とうとした。しかし、チョロ松より先にカラ松が口を開いた。
「フッ、たった今空虚な時間の中に――」
「暇なんだな?」
 カラ松の言葉を容赦なくチョロ松は遮った。余計なことは言わせないというチョロ松のオーラに圧し負けて、カラ松はあっさり肯定した。
 余計なことを。これは絶対俺まで巻き添え食らうパターンだよ。
 舌打ちしたい心境だったが、まだチョロ松の用件を聞いていない。面倒事だったらカラ松に一発蹴りを入れよう、と一松は心に決めた。
「母さんから買い物頼まれたんだけど、僕これから用事あるし、他の奴らは今家にいないし、お前ら代わりに行ってきてくれない? あ、金はここにあるから。かなり量があるらしいから二人で行った方がいいよ。あとこれメモな。もし金が余ったら好きにしていいって、母さんが言ってたから。じゃあ、頼んだからな」
 矢継ぎ早に言いたいことだけ伝えたチョロ松は返事も聞かず、家を飛び出していった。余程急ぎの用事らしい。
「あんなに急ぐとは、よっぽどの用事らしいな」
 一松の考えを読んだかのように、全く同じことをカラ松が呟いた。
「金も受け取ってしまったし、買い物に付き合ってくれるよな?」
 確認するようにカラ松は一松の顔を覗き込んだ。一方的に押し付けられたとはいえ、行かないという選択肢はなかった。この買い物に行かなければ今日の夕食すら無いことだって有り得る。結局面倒事じゃねえか、と一松は大袈裟に溜息をついた。
「帰りに肉まん奢ってくれるなら行ってやる」
「ああ! いくらでも奢ってやるぞ!」
 パァッとカラ松が破顔した。その表情を横目に、蹴らないだけ我ながら譲歩したな、と一松は短く鼻で笑った。
「で? 何買えって?」
 カラ松が手にしたメモを一松は覗き込む。今日の夕食に必要なのであろう食材から日用品まで列挙されていて、思わずげえっと声が漏れた。
「これは一人じゃ無理だな」とカラ松が乾いた笑い声を上げる。「見ろよ、一松。洗剤も米も入ってるぜ」
「絶対重いじゃん……」
 二人は同時に項垂れた。トイレットペーパーくらいならまだいい。荷物はかさ張るが重さはそうでもない。しかし、液体洗剤や米となれば話は別だ。かさ張るし、重い。
 あいつら絶対逃げたな。
 メモを見てようやく一松は嵌められたと思い至った。
「……まあ、行くしかないだろ」
 珍しく険しい目つきをしたカラ松が声を上げた。どの道、他の兄弟に押し付けることはできない。一松も重い腰を上げて「そうだね」と答えた。
 スーパーからの帰路を考えるだけで腕がだるくなる。二人は揃って深く溜息をついた。
「一松、途中で公園に寄っていかないか?」
 何の苦も無く米と洗剤が入ったビニール袋を両手に提げたカラ松が声を掛けた。一松は比較的軽い袋を渡されていたが、それでも袋一杯に詰まった食材は腕から肩にかけて負担をかけていた。
 なんでそんなに平気そうなんだ。
 眉一つ動かさずに横を歩くカラ松に呆れすら覚える。しかし、カラ松の誘いは十分魅力的だった。
「いいよ」
 休みたい。一旦この重みから解放されたい。
 一松は二つ返事で了承した。
「大丈夫か?」
 どさりと公園のベンチに身を投げるとカラ松が心配そうにこちらを見た。いや、お前の方が十分重そうなの持ってるけど、とは口に出さず簡単に言葉を返す。
「まあ、平気」
「そうか。ならよかった」
 会話が終わる。静寂が気まずいとは思わなかったが、隣でカラ松が様子を窺っている気配がしてどうにも居心地が悪い。「何?」と助け舟を出してやるとホッとしたような表情でカラ松が息を吐いた。
「途中でコンビニ寄れそうになかったからさ」
 ポンとクリームパンと手渡された。
「え、何」
「帰りに肉まん奢ってくれ、って言ったのは一松だろ? この荷物じゃコンビニ寄れないからな。肉まんじゃなくて悪いけど」
 確かに言った。が、まさか律儀に奢ってくれるとは。
 呆気に取られてカラ松と手の中のパンを見比べた。一言も発しない一松を見て、カラ松が慌てて付け加える。
「心配しなくてもさっきのお釣りだぜ」
 バチンと片目を瞑る。普段ならば悪態の一つでも吐くはずの一松は固まったままだ。みるみるカラ松の表情は曇り、眉が下がってしまった。
「もしかして、メロンパンの方が良かったか?」
 おずおずと袋からメロンパンを取り出す。自分の分まで用意してたのか、クリームパンを拒まれたときのためかどちらかは一松には見当がつかない。
「いや、そうじゃないけど」
 辛うじてそれだけ呟くと一松は包装を破いた。どうにも調子が狂う。無遠慮にパンに噛り付くと、カラ松の雰囲気が柔らかくなった気がした。たったこれだけで緊張するってどうなんだよ、という言葉をパンと一緒に飲み込む。
 大の大人が公園のベンチで無言で菓子パンを食べている光景はきっと傍から見れば滑稽なんだろうな。
 隣のカラ松に視線を向ければ、無言でメロンパンを頬張っていた。何か考え事をしているのか、あるいは何も考えていないのか。表情からは何一つ読めなかった。
「なあ、何か面白い話とかないの」
 するりと言葉が一松の口を突いて出てきた。断じて沈黙が気まずかったわけではない。ただの気まぐれみたいなものだ。
「面白い話、か」
 カラ松は腕組みをして大袈裟に唸った。
「あー、メロンパンにはメロン果汁が入ってない、とか?」
「どこが面白いんだよ、却下」
「お前が無茶言うからだろ! じゃあ一松は面白い話あるのかよ」
「無いね。あったらお前に話振るわけないだろ」
 一松が鼻で笑うと少し沈んだ声で「なんで強気なんだよ」とカラ松は零した。
「おい、そろそろ帰ろう」
 残ったクリームパンを口に放り込んで一松は立ち上がった。早く帰らなければ夕食が遅くなるだけだ。カラ松の反応には見向きもせず、袋を取って歩き出す。やっぱり重い。
「えー……一方的……」
 カラ松は頬をひきつらせたが、一口でメロンパンを飲み込んで一松の後を追った。後ろから聞こえる足音に一松は速度を緩める。
「お前、置いていくなよ」
 隣に追いついたカラ松が恨めしそうに肩を上下させる。よくもまあ重い荷物を持って走れるな、と一松は目を丸くした。体力あるな。
「よくそんなん持って走れるよね」
 思ったことをそのまま口に出せば、カラ松はぽかんと口を開けた。「そうか?」と聞き返したあたり、何を言われたのか理解していないのかもしれない。
「それ、俺のより重いんじゃないの」
 両手が塞がっているため、顎で示す。
「ああ、これか」ひょいとカラ松が袋を上げる。「米も洗剤も入ってるからな」
 そんなにひょいひょい上げ下げできるもんかよ。米って何キロあると思ってるんだよ。
 一松が閉口した一方で、カラ松が朗らかに言葉を続ける。
「力には自信があるし、良いところ見せたいだろ?」
「……っぽいわぁ」
 カラ松の観察を始めて、一松は薄ぼんやりと不可解な兄の人となりが見えてくるようになった。自分が良いと思ったこと、あるいはかっこいいと思ったことをカラ松は躊躇せずに行動に移す。きっと今日も、弟には比較的軽い荷物を持たせる自分がかっこいい、兄らしいと思った結果なのだろう。自己愛に溢れた結果、他人を思いやる行動になっているあたり、本当にカラ松らしい。
 そう溜息交じりに吐いた一松の言葉にカラ松はぴくりと反応した。
「俺らしいって、最近よく言われるんだがどういうことなんだろうな」
「は?」
「トド松に言われたときは、底なしのお人好しだと返されたんだが、俺がギルトガイだということなんだろうか」
「いや知らねえよ。テメエで考えろクソ松」
 直前まで普通に会話していた分、痛くて対応できない。面倒になって一松は返事を全て放り投げた。しばらくブツブツとカラ松が呟いていたが、意味も考えたくなくて聞こえないふりをした。やはり理解できない。 
 底なしのお人好し、ね。
 トド松が言ったという言葉を反芻する。半分は賛成だ。ただ、その一言だけでは片付かないような何かを一松は感じていた。

◇ ◇ ◇

 一松が深夜目を覚ましたのはほんの偶然だった。普段からよく寝付けないというわけでもないし、空腹感にも尿意にも襲われたわけでもない。ただ、ふっと意識が浮上した。おもむろに隣に意識を向けるともぬけの殻だった。僅かな隙間から冷気が流れ込んでくる。一松は寒さのせいで目が覚めたと結論付けて、ごろりと寝がえりをうった。
 しばらくしてもカラ松は戻ってこない上に、目が冴え始めてしまった。小さく息を吐いて、一松は上体を起こす。ぽっかりと空いた空間の向こうでは兄弟がいびきをかいていた。起き上がったことで眠気はすっかり遠のいてしまった。せっかくだから一服しようと静かに外に出る。
「うわっ、びっくりした」
「……それ、こっちのセリフなんだけど」
 ベランダには先客がいた。しかしカラ松がいるから部屋に戻るというのも癪だったので、後ろ手に窓を閉め少し間を空けて腰を下ろす。カラ松はそれを横目に見ながら静かに煙を吐いた。
「眠れないのか?」
「いや。目が冴えてきただけ」
 煙草を一本抜き取り咥えたところでライターを置いてきたことに気づく。ぱたぱたとポケットを探っていた一松に気づいたのか、カラ松がライターに火を点けて差し出した。
「……どうも」
 火が点いたのを確認するとカラ松は満足そうに片方の眉を上げた。一松は煙を目いっぱい吸い込む。
「なんかさ、さっきのキャバ嬢にサービスしてもらうみたいで気分良いね」
「一松、それおっさんくさいぞ」
 カラ松が低く笑う。そんな笑い方もできるのか、と一松は驚いた。自分と同じ年のはずが少し大人びて見えた。
「だいたいキャバクラなんて行ったことないだろう」
「まあね。現実は野郎くさい六つ子の兄だし」
 喉を鳴らすと、つられてカラ松も肩を揺らした。しんと張った夜の空気が僅かに揺れる。こういうゆったりとした雰囲気も悪くないと一松は二人分の煙を目で追った。
「お前こそ眠れないんじゃねえの」
 ぽつりと疑問を口に出す。暗くて顔は見えないが、カラ松の肩が跳ねたのは分かった。
「フッ、リトルスターたちが綺麗な声で誘うものだからそれに乗じただけだ」
 カラ松が細く息を吐くのに合わせて白い煙が揺らぐ。いちいち反応するのも馬鹿らしく感じて、一松は「で?」と鋭く追い打ちをかけた。
「……お前さ、夢はあるか?」
 はぐらかされた、と直感的に思った。
「夢? 俺みたいな社会のゴミにそんな大層なモンあると思ってんの」
「お前はゴミなんかじゃないさ」ふっとカラ松が眉を下げる。「でも、そうか、願望とかもないのか?」
 なぜかカラ松は食い下がった。「願望」と一松は小さく繰り返す。
 夢だとか願望だとか綺麗な言葉で表現できるような思いは一松の中にはなかった。ただ、あったのはもっとどろどろと醜くてべったりとこびりついているような欲求だけだ。他人にも見せられない、自分でも目を背けたくなるような、泥のような承認欲求だけだ。
 カラ松の前にそんな感情を無防備に曝け出したくなくて一松は変化球を投げた。
「虎になりたい、とかかな」
 気づかれないといい、と一松は目を閉じた。額面通りにしか受け取れないはずのカラ松にはきっとこの比喩は通じないはずだ。
「虎、か」何かを含んだような声音でカラ松は復唱した。「ちょうど明月だな」
 ゆるりと空を見上げたカラ松につられて一松も顔を上げる。満月ではないが、辺りの星々をかき消してしまうほと燦然と月が輝いていた。暗闇に慣れてきた目には眩しすぎるほどだ。視線を戻すとカラ松と目が合った。月に目が眩んだせいか、ちかちかと向き合った瞳の中に光が見えた気がした。
「此の夕べ渓山明月に対して長嘯を成さずして但だ嘷(こう)を成す――だよな。お前らしいな、虎になりたいって答え」
「知ってたの」
「知ってた、というより俺も同じだから。まあ、虎になりたい、というより虎を飼っているという方が正しいか」
 カラ松は自嘲的な笑みを浮かべた。あの虎も自嘲癖があったのではなかったか、とぼんやりと思い出す。臆病な自尊心を、尊大な羞恥心を、カラ松も飼っているのかと思うと今まで得体の知れない存在だった兄が急に自分と重なって見えた。
「僕よりはマシだよ」
 慰めるつもりも自嘲するつもりもなかったが、ぽつんと言葉が出てきた。
 虎を飼っていたとしても、カラ松はきっと僕より上手く飼いならせているよ。今にも虎に噛みつかれそうな僕なんかより、ずっと。
「どういうことだ?」
「テメエは虎にはならねえってことだよ、お人好しのクソ松」
 カラ松の手元にあった携帯灰皿を奪って火を揉み消す。まだ長い煙草を揉み消すのは少々後ろめたいが、一松は部屋に戻って寝てしまいたかった。他人の奥底を暴くのは自分自身を曝すのと引き換えになる。共鳴し始めた感情のままに自分を曝け出すことだけは避けたかった。
「もう寝る」
 乱暴に言い捨てて一松は部屋に戻る。部屋を出たときと同じように兄弟は規則正しく寝息を立てていた。布団を頭まですっぽりとかぶっても、瞼の裏でちかちかと光が見えて頭がくらくらする。月の光なのか、それを映したカラ松の瞳なのか、それとも両方か。
 一松にはそれが何かが変わり始める合図に見えた。

◇ ◇ ◇

 男は己の内なる猛獣を飼い太らせた結果、自身が猛獣となった。彼曰く、人間は誰しも猛獣使いであるという。ならば、俺の猛獣はさしずめ愛情を渇望する淋しがりの利己心といったところだろうか。
 カラ松は橋の欄干に寄りかかり、サングラスをかけ直した。空は灰色でまるで自分の心境を反映させているかのようだと思った。
 時折雲の切れ間から覗く太陽を反射する川面を眺めながら、虎になりたいと答えた一松を思い浮かべる。普段は他人を拒絶する姿勢を取っている一松も、あの憐れな男のように臆病な自尊心を飼っているのだろうか。自分よりマシだ、と零した表情はどこか諦めているような、それでいて何かを期待しているような、様々な感情をない交ぜにしたような表情だった。いつもは怒り以外読み取りにくい表情をしているので、あんな風な、見ている方が胸を痛めてしまうような表情も浮かべられるのだなと思わず関心してしまったくらいだ。
 あの夜、目が合ったほんの瞬間、一松の瞳の奥が揺らいで見えた。揺らいだ瞳は夜空を映してきらりと光っていた。あの光は月だったかもしれない、そう頭では思うものの、カラ松はあれが一松の抱える淋しさだと強く感じた。あれが一松にとっての猛獣なのかは本人にしか分からないが、カラ松と同じものを一松も抱えていた。
「案外似てるのかもな」
 カラ松はそう独り言ちると、あてどもなく足を動かした。川沿いから商店街、そして住宅街。カラ松には予定もなければ娯楽に費やすほどの金もなかった。そろそろ帰ろうかと踵を返すと、路地裏へ入る見慣れた猫背が視界に飛び込んできた。
 そっと後をついていくと、不意に猫が鳴いた。物陰に隠れていて姿は見えないが、どうやら一松は猫を構いに来たようだ。一松が小さく笑う声が聞こえる。ここで出ていくと邪魔になるだろうと判断し、路地を引き返す。
 全力疾走したわけでもないのに、胸が締め付けられて苦しい。この痛みは一体何なんだ? 思い当たる節がなくて余計に戸惑う。
 息苦しいような胸の痛みは帰宅しても治まることはなかった。カラ松は首を傾げる。明日になっても痛みが治まらないようなら病院に行くべきだろうか。
「何変な顔してんの、邪魔」
 いつの間に帰ってきたのか一松に蹴られる。慌てて謝って居場所をずらすが、一松は動かずカラ松の顔を見つめた。
「フッどうした? この俺の美しさに見惚れたか?」
「生憎同じ顔だよ」
 鼻で笑う一松の雰囲気はいつもより柔らかい。違和感に思わず首をひねる。
「じろじろ見てんじゃねえよ、クソ」
 一松が舌打ちする。ああ、いつもの一松だ。カラ松は胸を撫で下ろし「すまない」と再び謝った。
 気づくと締め付けるような痛みは引いていた。何だったんだ? 痛みの正体は分からないが、痛みが生じたときも治まったときも一松が近くにいた。それは何か関係があるのだろうか。
 悶々と悩んでいてもしょうがない、と開き直って雑誌に目を落とす。ファッションに関する記事は既に読み終えてしまっていて、読者投稿ページを開く。気休めになればいいし、もしかしたら同じような悩みを持った人がいるかもしれない。活字と軽快なイラストで彩られた記事を読み進めていく。事実は小説より奇なりというが、本当に実話なのだろうかと疑いたくなるような話もあって面白い。
 ページをめくると、同じような悩みを抱える青年の相談が目に飛び込んできた。
 ある人が他の人と仲良くしているのを見ると胸が痛くなる、その人が自分に向かってにこりと笑いかけてくれるとふっと胸が軽くなる、これは何でしょうか。
 細かい状況が違っている気がしたが、カラ松はこの青年に自分を重ねた。一松が猫と楽しそうに触れ合っているのを見て胸が痛くなった。一松と会話をするとすっと痛みが引いた。にこりと笑いかけてくれた、というのは違うがきっと同じような症状に違いない。縋るような思いで相談に対するコメントを見る。
 ――それはきっと嫉妬ですね。
 嫉妬? カラ松は一瞬理解ができなかった。嫉妬、というのは例えば好きな人や恋人が自分の方を向いてくれないときに感じるものではなかったか。俺の胸の痛みが嫉妬だとするならば、俺は一体何に嫉妬したのだろうか。
 もしかして、猫? 俺はあの猫たちのように一松に優しくされたいというのか?
 カラ松は雑誌を読むのをやめ、自問自答を繰り返した。胸の痛みは嫉妬が原因なら、対象は猫で、だとすれば――。
 俺は、一松のことが好きなのか?
 ぱちんと何かが弾けたように感じた。好き。今までの疑問が収束していく気がした。一松に構ってしまう理由、一松が気にかかる理由、猫にすら嫉妬してしまう理由。全て一言で片づけられる。
 そうか。俺は一松のことが好きなのか。
 どさりと畳に身を投げ出す。ああ、これからどうしようか。カラ松はすっと目を閉じた。

◇ ◇ ◇

 共感という感情は末恐ろしい。世界一遠いと思っていた存在を一気に身近な存在にさせる。せめて共通点があれば、と安易に思っていた頃が懐かしく感じられる。
 一松はふらっと路地裏に立ち寄る。室外機が音を立てるだけの空間には生き物の気配が全くしない。そういう日もある、と一松は足の向くまま歩いていく。パッと視界が開けたかと思えば、いつの間にやら川沿いまで出てきたようだった。
 川面はきらきらと太陽を反射している。空は青いのに、川は青く見えないものだな、とぼんやりと思った。
「こんなところで会うなんて、奇遇だな」
 名前を呼ばれて振り返ると、予想通りカラ松が格好つけて立っていた。
「何の用だ、クソ松」
「愛しいブラザーを見かけたら声を掛けたくなるものだろう?」
「全然分かんねえ」
 カラ松をバッサリと切り捨てて、川に沿って歩みを進める。ついてくるなとは言わなかったが、カラ松は当然のように一松の隣に並んだ。
「ちょうど俺も帰るところだったんだ」
「あっそ」
 言外に一緒に帰ろうと言われているようでむず痒い。
「コンビニにでも寄るか?」
「あー、俺金ない」
「奢ろう」
「まじか、あざーっす」
「フッ、今日はヴィーナスが微笑みかけてくれたからな」
 二人だけで穏やかな会話をするとは思わなかった。一松は自身の変化に苦笑する。
 相変わらずカラ松の言動は理解できないものが多いが、カラ松の根底に巣食う感情を垣間見てしまってからどうにもカラ松の優しさを無下にすることができなくなってしまった。まるで空気のようだと思う。青空は掴めないほど遠いのに、空気は確実に自分の周りにあって、それが無ければ生きていけない。カラ松のことはまだ不可解な存在ではあるが、彼の優しさを享受できるならきっと一松はそれ無しに生きていけなくなるのだろう。

 青は世界一遠い色じゃなかったのだろうか。
 隣を歩く、手を伸ばさなくても届く距離に居る青を見ながら一松は頬を歪めた。

ゆるりと始めた連作。
本文中に出てくる作品:「青は遠い色/谷川俊太郎」「山月記/中島敦」

2016.04.15
pixiv・pictBLand 2016.02.22