寝静まった兄弟を起こしてしまわないように部屋を抜け出す。深夜特有のひやりとした空気が足元からせり上がってくる。極力音を立てないように戸を引きバルコニーに出る。壁に寄りかかるように腰を下ろして空を見上げる。晴れ渡った夜空にはちらちらと星が瞬いていた。
「ホットミルク淹れたんだが、飲むよな」
カラ松がしたり顔で紫のマグカップを差し出した。「ん」と言葉少なに一松は差し出された自分のマグカップを受け取る。ホットミルクはほのかに湯気が立っていたが、すぐにでも飲めるような温度に調節されていた。
「愛かねえ」
ぼそりと呟いて口をつけると、じんわりと温かさが身体に広がった。自覚していた以上に芯まで冷えていたようだ。
「何か言ったか?」
一松の隣に腰を下ろしたカラ松が覗き込むようにして尋ねる。
「何でもない」一松ははぐらかした。「それより、ヒゲついてる」
「うわ、マジで」
カラ松は慌ててごしごしと乱暴に口元を拭った。確認するように一松に視線を投げかけたのに一松は顎を引いて答えた。
しばらく二人は黙ったままホットミルクを飲んだ。時折家の前を通る車の音以外は何の音もない。草木も眠る、という表現が相応しい夜だった。ただの思いつきで頭を倒し、カラ松の肩に体重を預ける。肩がわずかに跳ねたが、一松の思惑が分かったのか避けることなくその重さを支えた。
「眠いのか」
「いや、なんとなく。あったかいな」
「そうか」
ふっと一松の頭に重さがかかる。カラ松の頭が乗っていると気づくのに時間はかからなかった。
「このまま時間が経たなければいいのに」
カラ松がぽつりと零した。自分の頭上から零れてきた言葉を取りこぼすはずはなく、一松は「そうだね」と小さく相槌を打った。
再び沈黙が訪れる。一松は手にしたマグカップに視線を落とした。白い水面は凪いでいる。手にした熱はずいぶん飛んでいて、マグカップよりもカラ松と触れ合っている部分のほうが温かい。
「あのさ、俺、ずっと考えてたことがあるんだ」
想像以上に弱々しい声が出た。本当はもっと平然と言ってのけるつもりだったのに。出てしまったものはもう取り返せない。ぴくりと身じろぎしたカラ松の手を取ってやんわりと握る。
「お前が思ってるような話じゃないと思うよ」
肩口に鼻をすり寄せる。肩越しにカラ松の力が抜けたのを感じた。
「別れ話でもされるのかと思った」
「そんなことだろうと思った」
握った手に緩やかに力が込められた。「一松の考えてること聞かせてくれよ」柔らかく穏やかな声が降ってくる。
「……うん」
カラ松に手放しに受け入れられていることが声音から伝わってくる。愛されているという実感に目を閉じた。胸の奥がじんわりと熱くなる。
「幸せかなあ、って」
「どういうことだ?」
「僕じゃあんたに普通の幸せってやつを与えられないんだと思って。最近ずっとそんなことばかり考えてる」
すり、とカラ松が一松の頭に頬を寄せた。
「そんなこと考えてたのか」
カラ松の手の力が強くなる。握られて初めて自分の手が微かに震えていたことに気づいた。
「お前の言う普通の幸せが何を指すのか分からないが、俺は幸せだよ」カラ松はあやすように言った。「お前が思ってるよりもずっと」
一度ぎゅっと目を瞑ってから一松は目を開けた。「そっか」鼻の奥がつんと痛む。どうして欲しい言葉ばかりくれるんだろう。
頭を動かすとふっと重みが消えた。首をひねると目の前にカラ松の顔があった。
「僕も、幸せだよ」
どちらともなく唇が重なる。
手の中のマグカップはすっかり冷えきっていたが、頭のてっぺんから爪先まで温かさにに包まれている心地がした。
付き合ってる一カラ。連作長編を書きたいなあと思いつつ出来上がったプロローグ的な話。