「俺は信じてるぜ、一松」
何の含みもなく投げかけられた言葉に悪寒が走る。考えるより先に身体が動いた。ちぎれんばかりに握ったパーカーの首元で、自分が何をしたのか分かっていないかのような顔で兄が俺を見上げる。怯えた瞳にはうっすらと涙が浮かんでいて余計に惨めな気分になった。
「その辺にしとけよ」
制止する兄の声が長男だか三男だか判断できないほど、俺の頭の中はしっちゃかめっちゃかになっていたが、やっとのことで手を離した。安堵した表情を浮かべる次男に苛立ちが募る。
「そういう兄貴面、うざいんだけど」
舌打ちと共にカラ松に吐き捨てて居間を出た。背後から三男だか末弟だかの声が飛んできたが、それも無視して階段を上がる。
ベランダに出るや否や煙草に火を点ける。
「信じてる、とか偽善以外の何物でもねえよ」
煙と共に言葉が漏れる。とてつもなく惨めな気分だ。二つ上の兄から与えられる優しさだとか慰めだとかが嫌いだった。前向きな言葉が投げかけられるたびに、自分がひどく矮小な存在に思えて、惨めで、ひたすらにどうしようもない気持ちになる。
目の前にはカラフルなパーカーが物干し竿に並んでいた。呆然と見つめているとなんだか迷子になったような気分になる。
――僕がみんなで、僕たちは僕。
もう成人した僕らは、六つ子に縛られなくて自分の好きなように生きていけるという象徴のようで、落ち着かない。物干し竿にかかった普段着ている紫のパーカーと今着ているグレイのパーカーを見比べる。紫色より、グレイの方が今の俺にはぴったりなんじゃないのか。兄弟みたいに色づけなかった僕には余程お似合いだ。
それに僕は――。
煙を吐いて、何気なく空を見上げる。霞む煙の先に広がる空は突き抜けるような青色で、鼻の奥がツンと痛んだ。
この想いの始まりはいつだったのだろう。未だに一つも整理がつかないままの頭で記憶を辿る。
――今度、王子役をやることになったんだ!
ふと頭の奥底で声変わりをして少ししか経っていない声が聞こえた。あれはまだ僕たちは僕だった頃、カラフルなパーカーではなく揃いの詰襟を着ていた頃。偶然一緒に下校したカラ松が嬉々として報告してくれた。
――へえ、すごいじゃん。何の劇なの?
あの頃はまだ、こんなに卑屈じゃなかった気がする。瞼の裏に青から紫、そして濃紺へのグラデーションが浮かぶ。
――シンデレラだ。観に来てくれよ。
そうだ。シンデレラだった。警鐘のようにボーンと低い鐘が頭の中で鳴り響いた。
結論から言えば、初めて主役級の役を与えられたカラ松は舞台上で輝いていた。まるで本当の王子のような気高い振る舞いにあっさりと心を奪われた。
俺は観客席で静かにシンデレラに嫉妬した。男の俺は、弟である俺は、僕は、絢爛なドレスはおろか、瀟洒なかぼちゃの馬車も清純なガラスの靴も何一つ似合わない。僕にあんな輝かしい未来は待っていない。僕の持たない煌びやかな物を全て手にした彼女を、舞台上の虚構にしか過ぎない存在を僕は妬んだ。
僕にあるのは、いや、あったのは、ただ自堕落で冒涜的な変哲のない日々だけだ。
「信じてるんなら救ってほしかった」
すっかり小さくなった煙草を揉み消す。
「ああ、もちろん。愛しい兄弟よ」
背後から優しい声がする。いつからいたの、なんて声は掛けずに声の主をじっと見つめた。
「さっきは、その、すまなかったな」
「なんで謝るの。なんで俺が怒ったか分かってんの」
分からないくせに。そんな中途半端な優しさはやめてくれよ。
「すまない。俺には、分からない。でも、あれは本心だ。同情でも憐憫でもなく、本当に俺はお前のことを信じてる」
どうしてそんなに真っ直ぐな目をして俺を見つめるんだ。惨めな気分が首をもたげる。二本目の煙草に手を伸ばした。
カラ松は静かに眉を下げた。
「一松は誰よりも優しい人間だって、俺は、ずっと信じてるよ」
どんな下手な呪いよりも、残酷な呪いだと俺は煙と一緒に溜息を吐き出した。
「ねえ、カラ松」
今なら言えるだろうか。勢いで言ってしまおうか。もう何もかもがどうでもよくなった。俺のことも、カラ松のことも、伝えた先の未来も。
たった一言、俺のために生きて、と。
言えるわけなかった。言ってしまえばよかったのに。俺の意気地なし。
本気になれば俺はどこへでも行けたはずなんだ。
だって俺は、いや、俺たちは十分オトナになった。いざとなれば、この足で家を出ることなど容易なはずだ。自由になれたはずだ。
「……なあ、お前さ、家を出る気ねえの?」
質問をすり替えたことに気づいたのか気づいていないのか、カラ松は一瞬目を丸くして唇で弧を描いた。
「ないな。責任もないし、自立もする気はない」
「ほんとクズだな」
自嘲も含めて吐き出す。俺が家を出ないのはあんたがそうだからだよ、とは言えなかった。俺も大概のクズだ。
カラ松が家を出ないという制約の中、不自由なように見えて自由だった。そう、俺は、自由だった。この自堕落で冒涜的な日常が与えられたのはカラ松がいるという不自由さが生んだ自由だ。
俺が吐き出した煙は空に上る前に霧散した。あっけないものだ。
――私のこの愛は永遠だと神に誓いましょう。
そう語ったのは王子だったのか、もう思い出せないが、カラ松の声で再生される。
もし、俺のこの歪んだ愛情も同様に永遠だというのなら、付随する苦しみも含めて永遠なのだろうか。終わりなど来ないのだろうか。
「来世、来世」
再び一人になったベランダで紫煙を燻らす。どこからともなく、真夜中を告げる鐘の音が聞こえた気がした。
魔法のように、真夜中になったら消えてくれればよかったのに。真夜中を過ぎても残るものなんて、消してほしい。
いつまでも痛む心は癒えない。変わらずに向けられる優しい声に、穏やかな笑顔に、毎回無様に期待してしまう。
もう僕を救えるのは、癒せるのは一人しかいないのに。
結局俺はじくじくと痛む心を持ったまま、自堕落な生活を享受する他はなかった。
米津玄師の「シンデレラグレイ」を聞きながら。