変身願望は誰にだってある。
例えば、何某さんのようになりたい。あるいは猫のように気ままに過ごしたい。あるいは――。
「いらっしゃい。松野くん、今日はどうする?」
幾度と通い慣れた店で物腰の柔らかい店長は朗らかにいつもの質問をする。
「前回と同じ感じで。いつも場所貸してもらってスンマセン」
「いいよいいよ、気にしないで」
にっこりと微笑むとレジの奥に「僕、手が離せないから後はお願いしていい?」と叫んだ。すぐに返事があった。
「もう慣れてると思うけど、好きに使っていいから」
店長は慌ただしそうに他の客のもとへ向かった。入れ違いに店員がやってきた。ぺこりと「久しぶりですね」と頭を下げた。
「では、どうぞこちらへ」
そのまま店の奥に案内される。スタッフルームと売り場の間にあるフィッティングルーム。何度来ても期待と不安で胸が高鳴る。
「俺、一旦店に戻りますけど何かあったら呼んでください」
じゃあ、と去っていく彼に礼を告げ、部屋の扉を開ける。
変身願望は誰にだってあるはずだ。
『俺でない誰か』になりたい。これもひとつの変身願望だ。
――俺は性別すらも変わってしまいたいと思った、ただそれだけだ。
後ろ手に部屋の扉を閉め、電灯のスイッチを探す。カチリと鳴ったと同時に部屋が明るくなる。化粧台がひとつあるだけの部屋だ。店長の厚意で置かせてもらっている私物である女性ものの衣服を手に取る。
今日は冷えると聞いたから少し着こんで行こう。何か厚手の服はあっただろうか。
「松野さん」
扉をノックする音に呼ばれる。そんなに長居をしただろうかと時計を確認すると五分も経っていなかった。
「どうしました?」
扉を開けると店員が立っていた。手には俺の髪色より明るい色をしたウィッグが握られている。どうしたものかと言葉を探していたら、先に彼が口を開いた。
「店長がたまには明るい髪色に挑戦してみませんか、と言ってたので」
「そこまでしてもらっていいんですか?」
「いいですよ。俺も店長も松野さんの変身っぷりを見るのが好きなんですから」
へにゃりと眉を下げた彼につられて眉が思わず下がる。場所も貸してもらって恐縮だが、せっかくなのでお言葉に甘えよう。
「じゃあ、せっかくなので」
「出来上がるの楽しみにしてますね」
彼を見送って改めて渡された物を見る。いつも使っているウィッグよりも数段明るい色をしていた。緩やかにウェーブがかかっているようだ。さて、この髪に似合う服を見繕わなければ。
自分以外の何者かになりたい。そう自覚したのはいつのことだっただろうか。気づいたときにはもう既に自分以外の何かになることに魅了されていた。そうでなければ六年間も演劇にのめり込むことはなかっただろう。
演劇は楽しかった。カラの自分が満たされていく感覚が、一生経験することのない非日常が、俺を虜にしてやまなかった。舞台の上で俺は何者にでもなれた。あるときは勇敢な騎士、あるときは村人A、またあるときは――。
転機は非常に些細なものだった。ヒロインの姉を演じる女生徒がインフルエンザにかかった。大きな舞台だったから部員のほとんどは配役が決まっていて、代役の務まる女子はいなかった。誰が言ったのかも分からない。誰かが言ったのだ。ただ一言「松野ならできるんじゃないか」と。これが初めて演じた女性役だった。全てが未知だった。ひらひらと舞うスカートも、肩まである髪も、艶めく唇も、何もかもが輝いて見えた。鏡に映った自分は自分で見ても女性だった。
あ、これは完全に『俺じゃない』。
そのときそう思った。
舞台は無事に成功。口々によかったと言いながら、俺は湧き上がった感情に囚われていた。自分から最も遠い存在になれる。そう、確信した。
それから少しずつ女性の所作やファッションに気を向けるようになった。もちろん女の子は普通に好きだし、告白だってしたことがある。何も俺は女性になりたかったわけじゃない。憧れたのは男らしい存在だし、普段なら迷うことなく革ジャンを着てサングラスをかける。
ただ、俺は『自分』と離れたいときがあったんだ。
変身は、最後にグロスを塗って完成だ。
緩やかなウェーブのかかった肩までの茶髪は、今までなかなか手が出せずにいたが案外違和感がない。グレーのニットワンピースに黒タイツ、アウターはカーキ色のモッズコート。この格好なら靴は履いてきたブーツのままで良さそうだ。なるべくなら靴は履き慣れている方がいい。最後までニット帽をかぶるか悩んだが、せっかく店長が勧めてくれたのを隠すのは勿体ないと思い直してやめた。
鏡を見て深呼吸。俺は、――私は可愛い。
「店長、あの、これ、ありがとうございました」
店内に戻るとちょうど見知ったお客と店長たちが談笑していた。こちらに気づいた店長がパッと顔を輝かせた。
「やっぱり!すごく似合ってるよ、その色!」
満面の笑みで褒められて悪い気はしない。が、やはり照れる。文字通り頭のてっぺんから爪先まで褒められ、思わず両手で顔を覆った。この褒め殺しは恒例と化しているが一向に慣れられそうにない。耳の先まで熱くなっている。きっと真っ赤に染まっていることだろう。
大通りから少し外れた場所にあるウィッグ専門店の存在を知ったのは高校生のときだ。演劇用のウィッグを調達する先を探していたら、先輩が見つけてきた店だった。当時一人で店を切り盛りしていた店長は快く学生である俺たちの相手をしてくれた。店長は当時から物腰の柔らかい人だった。在学中は何度も世話になった。
いつだったか、俺が女性用のウィッグを眺めていると店長が「つけてみたい?」と尋ねたことがある。自分の奥底に蓋をした羨望に気付かれたかと焦り、二の句が継げないでいると店長は「似合うと思うよ」とまるで菩薩のように目を細めた。
卒業後演劇から遠ざかったため、店長とは疎遠になってしまった。再会したのは、当時の部員と居酒屋で思い出話に花が咲き、懐かしさのあまり店を訪ねたときだった。記憶と寸分違わない笑顔を浮かべて、店長は俺たちを迎えてくれた。当時より質が上がってるんだ、なんて嬉しそうに語ってくれて、いくつか試着もさせてくれた。長髪は似合わないなと爆笑している同輩に聞こえないように店長は「いつでも来たらいいよ」と耳打ちした。
「どうして」
学生の頃にされた質問が脳裏をよぎる。閉じた蓋の隙間から欲望が顔を出し始めていた。
「きみが望んでいる気がしたから」
何を、と問う前に店長は言葉を継いだ。
「変化を、変身を」
俺は返答できなかった。
結局、俺はそれから数か月後店のドアを開いていた。
女装したからと言って特別なことはせず、ただ普段通りに街中を歩く。俺にとって重要なことは『松野カラ松ではない』ということだけだったから、ただ普通に過ごすだけで十分だった。
今日は駅前まで行ってみようか。ただの思いつきで足を動かす。
そういえば駅前のカフェが新作を出したとトド松が言っていた。普段は辛口評価の末弟が興奮気味に絶賛していたのを思い出す。せっかく女装しているし駅前に来たのだから寄っていこう。『松野カラ松』ならばこうはいかない。俺は俺のかっこいいと思える行動を取りたいからだ。俺であるならば、そう安易にカフェには寄れない。俺の記憶が正しければトド松の絶賛する新作は明らかに女子をターゲットにしていた。だが、今の俺は何の気負いもなく行けるのだ。自分ではないという安心感が大胆な行動を起こさせる。
善は急げと、くるりと方向転換したら、視線の先に見覚えのあるパーカーがあった。グレーだから一瞬判別がつかなかったが、遠目から見ても分かる猫背で一松だろうと結論付けた。もちろん一松はこちらを見ていないし、何より俺のことに気づくことはないだろう。
それよりもカフェだ。
期待に胸を躍らせながらとカフェに歩みを進める。暢気に鼻歌を歌っていた俺は一松がこちらを見たことに全く気付かなかった。
さすがにトド松が絶賛していただけあった。メイクも落として普段着に戻り、意気揚々と帰宅する。その頃には一松を見かけたことなど頭から吹っ飛んでいたが、窓辺でどことなくアンニュイな雰囲気を醸している弟に思い出さざるを得なかった。
「十四松、一松はどうかしたのか?」
さすがに本人に直接聞けないので近くにいた十四松に小声で尋ねた。十四松は「ナイショバナシっすか!」と目を輝かせて、楽しそうに俺の耳に顔を寄せた。
「なんかね、一松兄さん一目惚れしちゃったんだって!」
「ひとめぼれ?」
「そう!駅前ですごくキレイな女の人見かけたって言ってた」
駅前、というワードに肝が冷えた。ちらりと見かけたパーカー姿がフラッシュバックする。まさかな。仮に駅前で俺を見かけたとしても、一目惚れなんてありえないだろう!だって俺だぞ!
「どんな人か聞いたか?」
至って平静を装いながら十四松に尋ねる。最悪の場合のことを考えようとしても思考が止まってしまう。どうか、どうか別の女性であってくれ。祈るような気持ちで十四松の返答を待つ。
「うーん、忘れちゃった!」
ジーザス!朗らかに言い放たれ思わず神に祈った。真相は一松のみぞ知る、ということか。十四松は「ナイショバナシ終わり?」と目をしばたかせた。
「ああ、終わりだ。ありがとな、十四松」
ニッと笑いかけると、十四松はンフフと嬉しそうに口元を袖で覆った。なんて可愛い弟だ。興味が逸れたのか十四松はパタパタと部屋を出ていき、部屋には俺と一松の二人になった。
さて、どうしたものか。
万が一ということを考えればこのままそっと放っておきたい気もするが、もし別の女性に一目惚れしてしまったなら兄として協力は惜しみたくない。まあ、協力させてくれるかは別の話だが。悩まし気な弟に手を差し伸べるのは兄として当然だ!
「一松」
ちら、と目だけこちらを捉えた。返事がないのはいつものことだから気にせず言葉を続ける。
「どうしてそんなに物憂げな瞳をしているんだ。まるで恋する少女のような――」
「ちょっと黙ってくんない」
地を這うような低い声に言葉を遮られる。アンニュイ、なんて言葉で収まりきれない鬱々とした空気に身体が竦む。
「恋とかなんとか勝手に決めつけんじゃねえよ」
会話が終わるという予想に反して一松は言葉を続けた。俺が上手く言葉を選べば聞き出せるんじゃないか。一筋の光明が見えた気がした。
「じゃあ何か悩みでもあるのか?」
「悩みってほどじゃない、けど」
ついと視線が窓の外に移動する。一松の顔は見えない。どこまで踏み込んで質問しようか考えあぐねていたところ、ぽつりぽつりと独白するかのように一松が話し始めた。
「今日、特に用事はなかったけど駅前でぶらついてたんだ」
「うん」
「そしたら、ちょっと遠かったんだけど、パッと目を引く人がいて、派手じゃないしどこにでもいるような人だったけど、なんか視線が吸い込まれるような感じで。ついつい見てたんだけど、その人颯爽とカフェに入っていって、嬉しそうだったから彼氏と待ち合わせだったのかもしれないけど、なんていうか、その嬉しそうな顔が忘れられなくて」
一松の耳がほんのりと赤く染まっていて、本当に一目惚れなのだと感じた。万が一自分だったらどうしようという不安と、応援したいという兄心をかけた天秤はあっさりと後者に傾いた。
「名前も何も知らない人だけどさ」
フッと一松が自嘲気味に笑う。諦観の色をした声音に「諦めるのか?」と問うてしまった。こちらを向いた一松がじとりと睨みつける。
「あんたには関係ないだろ」
「そう、だけど。せめてどんな人か教えてくれたら」
「俺の代わりに探してきてくれるって?いいよ、そんなお節介してくれなくて。余計なお世話」
「でも、気になるだろ、どんな人好きになったか、とか」
俺の言葉に、心底うざったいとでも言うように大きく息を吐いた一松は、それでも恋に浮かされたような熱を帯びた声で「ちょっと見ただけだけど」と口を開いた。
「茶髪で、立ち振る舞いとか格好はかっこいい系って感じだったけど、でも、どことなく可愛くて」
今まで見たことのない表情を浮かべている弟に微笑ましさを覚えるも、胸のずっとずっと奥で疼くような痛みが生まれる。何だろう、この痛みは。
「……会えるなら、もう一度会ってみたいもんだけどね」
吐き捨てるような言葉には諦めきれない想いが滲んでいた。自虐的な笑顔の裏に燻る熱を見て、そんな顔もできるんだな、と感心した。
◇ ◇ ◇
あれ以来一松は今まで以上に不定期に出掛けているようだった。元から猫のために不定期に外出する上、一目惚れしたという話は俺と十四松しか知らないらしく、他の兄弟は一松の行動に一様に無関心だった。俺も俺で、名前も顔も知らない人を探すというのは無理な芸当なので、時折一松の様子を探るくらいしかできなかった。どうやら難航しているらしい。
無論一松のことは気になるが、自分の息抜きの時間は必要で。
いつものように店を訪れ、フィッティングルームに案内される。前回のウィッグ、結構好きだったし今回も挑戦するか。
女装を始めてから知ったことがひとつある。俺はどうやらコーディネートのセンスがあるらしい。というよりも、俺は俺自身を好みの女性に仕立てているのだけど、どうやらそれが好評らしい。普段の格好は全く褒められないので、実は半信半疑ではある。鏡に映る自分好みの格好が評価されるのは純粋に嬉しいので、女装している間はそれも楽しい。
「今日はパンツルックなんだね」
フィッティングルームから出ると店長に声を掛けられた。暖色系のチェックシャツとデニムにトレンチコートを羽織り、前回は諦めたニット帽に伊達メガネをかけた格好は確かに女装の醍醐味からは外れているかもしれない。でも、何も俺はスカートが履きたいから女装しているわけじゃない。
「ちょっとカジュアルな気分だったんで」
「うん、似合ってるよ」
行ってらっしゃい、と背中で聞いて店を出る。詮索しない店長が好きだ。とても居心地がいい。
今日は買い物に行こう。
女装のときの服はもちろん自腹なので、完全にレディースなスカートやワンピース以外はできるだけ普段着にも着まわせるようなものを選ぶ。いわゆるユニセックスというやつだ。『松野カラ松』のときによく着ている革ジャンをそのまま女装のときに着たこともある。さすがに兄弟揃いのパーカーは着たくないが。ちなみに今日のトレンチコートなんかは普段も着るやつだ。
平日だが駅前の大通りは人が多い。どの店に入るか悩みながら通りを歩いていると、急に後ろから腕を掴まれた。
「……えっ?」
何か落とし物でもしたのだろうか。それともカツアゲか何かか?戸惑いながら振り返ると肩で息をしている紫色のパーカーが目に飛び込んできた。
まさか――。
「はぁっ、やっと……見つけた……、急に、すみません、……は、っあの、ちょっとお時間いいですか」
息も絶え絶えに話しかける声は聞き間違うはずのない声で。
「あ、自己紹介がまだでしたね、僕、松野一松って言います。あの、お茶でもしませんか」
掴まれた腕はほどかれないまま、男が顔を上げる。見間違うはずもない、聞き間違えるはずもない、まさしく目の前に立っていた男は俺の弟である松野一松だった。
「ありがとうございます、その、付き合ってもらっちゃって」
「い、いえ……」
なぜ俺は喫茶店で弟と向かい合っているんだろう。深く考えたくなくて、目の前のカフェラテに手を付ける。
ちらと一松の様子を窺うと、普段の態度から想像できないほど緊張して俯いたままだ。勢いで喫茶店に入ったはいいものの、何をどう切り出そうか悩んでいる、というところだろうか。一松に気付かれないようにそっと息を吐く。
この状況まで来ると、一松の一目惚れした相手が女装した自分だというのは頭空っぽだと言われる俺すら分かる。一松がその女性を見たという日以来今日に至るまで、俺は女装して出歩かなかったんだから出会えなかったのは当然だ。なんとなく申し訳なくなって心の中で弟に謝る。ごめんな、今日まで女装してなくて。というより、一目惚れした相手が俺で。
「あの、どうして私に声を?」
恐る恐る声を掛けると、一松が弾かれたように顔を上げた。あ、これはちょっと面白いな。あまり見ることのない反応に口角が上がる。
「以前見掛けたとき綺麗な人だと思って……、あ、初対面でこんなこと言われても気持ち悪いだけですよね、ごめんなさい」
「気持ち悪いだなんてそんな!急に声を掛けられたときはびっくりしましたけど」
一松の自虐的な言葉は、俺は好きではない。一松がそういうことを言う度に、まるで自分のことのように胸が痛むのだ。六つ子特有のシンパシーか何かだと思うのだが、原因は知らない。ただ胸の痛みだけは本物だ。
「でも、綺麗だなんてあまり言われないので、なんだか照れますね。ありがとうございます」
ニッコリと笑いかけると、一松は顔を真っ赤にして固まってしまった。そんなに惚れてたのか、弟よ。お兄ちゃん、本当に申し訳なくなってきちゃった。
「それで、もしよろしければ、本当に迷惑じゃなければでいいんですけど……」
「何ですか?」
「またお会いできませんか?」
なんとなくこうなることは予想していた。どうしようか。俺としては会う分にはいいんだが、いかんせん惚れられている。期待を持たせるのも申し訳ないし、何より、万が一バレてしまうと、それこそタダじゃ済まないだろう。
「やっぱりダメ、ですか」
明らかに落ち込んだ声音に、弟を悲しませたくないという感情が先走った。
「いいですよ、いつにしますか」
「えっ」
一松の輝いた目を見て、瞬時に後悔した。なんて無茶な約束をしたんだ。いくらなんでも弟を騙すなんて!
どうカミングアウトしようか悩んでいるうちに、トントン拍子に次の週末に会う約束が取り付けられてしまった。意外とぐいぐい来るんだな、一松。弟に感心するのは一種の現実逃避だ。
「あ、お名前を教えてもらってもいいですか」
「……葵、です」
咄嗟に出てきたのは、事の発端でもある役名だった。よく覚えていたものだ、と自分でも驚いた。
「じゃあ、葵さん、また」
はにかんだ表情を浮かべて去った弟を見送りながら、俺はいつか聞かれるであろう連絡先をどうするか考えあぐねていた。
◇ ◇ ◇
「お待たせしました、えっと――」
「一松、でいいですよ、葵さん」
ふ、と柔らかく微笑む弟に「一松さん」と呼び慣れない呼び方を口の中で反芻する。
待ち合わせは駅前の広場にある時計の下に午後一時。一方的に告げられた約束を律儀にも守った理由は単純なもので、あの日帰宅したときに見た一松の見たことないほど嬉しそうな顔を無為に曇らせたくはなかったからだ。騙し続けるのは罪悪感があるが、それでも、会ううちに幻滅されるパターンもあるかもしれないとなけなしの未来に賭けた。
一松は口にしなかったけどおおかたデートだろうと見込んで、ミモレ丈の紺のスカートに白のニットを合わせて来たが、黒のPコートにオリーブ色のカーゴパンツ姿の弟に予想が外れていなかったことを確信した。全く初めて見る姿の弟にうっかり見とれてしまい言葉を失った俺は一松の口がゆっくりと弧を描くのをただ見つめていた。
「こないだみたいな格好も似合ってましたけど、今日みたいな女の子らしい服もいいですね」
照れもなく褒める言葉に、俺の方が戸惑ってしまう。目の前にいるのは本当に俺の弟なのか。こんなに素直に言葉が出てくるなんて別人じゃあないのか。
「今日は行きたいところがあるんですけど、付き合ってもらえますよね」
葵さん、と声を掛けられてハッと我に返る。
「ええ、もちろん」
「猫、お好きですか?」
一松に連れられてやってきたのは、半年前に開店したばかり猫カフェだった。
「一度来たかったんですよね」
寄って来る猫を撫でながら一松は満足そうに笑った。
「なかなか野郎一人じゃ来る機会も度胸もなくて。だから、葵さんが付き合ってくれてよかった」
する、と一松の腕から猫が俺の腕の中へ移る。普段家に居つく野良猫は一松にしか心を許していないので、人懐こい猫は新鮮だ。抱きかかえても逃げないどころか甘えてくる猫につられて眉が下がる。
「猫とこんなふうに遊んだことないので、私も誘ってくださって嬉しいです」
猫と一緒に一松に向き直ると、ぼふんと音がするくらい一気に一松の顔が赤くなった。いつも顔を覆っているマスクも今日はない。「一松さん?」と名前を呼ぶと、わたわたと手で顔を覆って、恥ずかしそうに「あんまり見ないでください」と返ってきた。余裕のない一松を見れることが楽しくて笑っていたら、まだ赤い顔のままでムッと唇を尖らせた一松が手を伸ばした。
「あなたが可愛いからですよ」
そっと添えるように手を重ねられる。体温が低いはずの一松の手が熱い。熱が伝わったかのように俺の顔も熱い。じっと見つめられる視線から目が逸らせない。手からも、視線からも一松の熱が伝わってくる。一瞬とも永遠とも思える時間を終わらせたのは一松の方だった。
「ごめんなさい」
一松が小さく謝って手が離れてゆく。熱が去ったのがどこか名残惜しかった。追いかけるように動いた手に気づいたのかは分からないが、一松は俺の手を取り両手で包んだ。
「まだよく知りもしない相手にこんなことされるの嫌かもしれないですけど」
包まれた手に力がかかる。思わず「嫌じゃない」と声を上げれば、一松が安心したように目を細めた。
「もし、もしもですけど、葵さんが良ければ、これからもこんなふうに会って、談笑したい。俺は……僕は、それまで――」
はたと口を噤んだ一松の手に空いた方の手を添える。ぎゅっと握れば微かに震えていることが簡単に伝わってくる。ごめんな、何度となく心の中で謝る。俺、お前の兄貴だからさ、分かっちゃうんだ。ずるいよな。もし、俺が本当に『葵』ならって初めて思ったよ。
俺が握り返したことに目をしばたかせる弟に、言葉の続きは気づかないふりをして優しく告げた。
「いいですよ、また会いましょう、一松さん」
他人に拒まれる恐怖を抱えている一松が、自分の足で踏みだすなら俺はそれを無下にすることはできない。一松は俺の、いや、葵のことをちゃんと知るまで、しっかり仲良くなるまで、告白なんて性急な真似はしないと言いたいんだろう。ナンパした時点で一松の好意は見えているからこそ、相手にさっさと決断を迫るようなことはしたくないという優しさだ。本当に、俺で、ごめん。
◇ ◇ ◇
それから週に二回のペースで会うようになった。一松からの好意はちらちらと見えてはいるが、少し距離をとって穏やかに接している、という感じだ。あれ以来スキンシップも全くない。本当に急ぐつもりはないらしい。映画に行ったり、食事に行ったり、買い物したりと友人のような距離感で毎回過ごしていた。
俺は、少しずつ一松に絆されていく実感があった。『葵』として会っているときの一松が頭から離れない。あの、熱を帯びた視線が忘れられなくて、いつも一松と別れてから帰宅するまでに頭を冷やさなくてはまともに兄として一松に接することができなくなっていた。
「おかえり、カラ松」
すっかり日も暮れた頃に帰ると炬燵でみかんを剥くチョロ松に迎えられた。炬燵の残り三辺からは一様に頭が出ていて、それぞれおそ松兄さん、一松、トド松であると教えられる。みんな同じ体勢で丸まっていて、さすが六つ子だなと笑った。
「今日も遅かったね」
「……フッ、俺がいなくて寂しかったのか?」
「いや、別に」
定位置である一松の横に潜り込んでみかんを手に取る。剥く前に揉んでしまうのは一種の癖だ。
「お前さあ、最近一松が頻繁に出掛けてる理由知らない?」
「……どういうことだ?」
「さっきトド松が、一松兄さん最近変だよ!って一松に詰め寄っててさ。トド松曰く、よく出掛けてるとか家にいても携帯触ってる頻度が多いとか、あと、おしゃれに目覚めたとか」
どう思う、と聞かれて咄嗟に返答が思いつかなかった。チョロ松はあくまで世間話のつもりだろうが、ここで返答を間違うと、一松が一目惚れした女性とデートしていることも、その女性が俺だというも一気にバレかねない。
じとりと嫌な汗が背中を伝うのを感じながら、普段を装って口を開く。
「俺が知ってると思うか?」
「まあ、そうだよね」
興味なさそうにみかんの白い筋を取り始めたチョロ松にならって、俺もみかんを剥き始めた。なんとか誤魔化せたようだ。安堵していると、裾を引っ張られた感覚がして目線を下ろす。寝ぼけて焦点が合わない一松が気怠そうに自分の口を指し示していた。ぽかんとしていると手にしたみかんに指先が動き、ようやく一松の言いたいことを理解した。みかんを一房口に放ってやる。もぐもぐと口が動くのを眺めていると餌付けしている気分になってきた。ぱか、と再び口が開いたのでさらに一房入れる。
「何してるの」
チョロ松が覗き込んできて一松を見る。
「これは完全に寝ぼけてるね」
「そうだな」
「ちょっと楽しいとか思ってるでしょ」
「バレたか」
「バレバレだよ。起きて気づかれたらまた殴られるんじゃない?」
「そのときはそのときだ」
三房目を放り込んだら口は開かなくなった。代わりに、口角が満足気に上がる。やっぱり可愛い弟だよな、と俺もみかんを食べ始めるとチョロ松が「知ってたけど、兄バカだよな」と呆れていた。
チョロ松が「トイレ」と席を立つと、再び引っ張られた。まだみかんが食べたいのだろうか。最後の一房を一松に差し出すと口が僅かに開いた。そのまま手の甲に一松の顔が擦り寄る。
「一松……?」
名前を呼ぶが返事はなかった。寝ぼけているのか、と思っていたら一松の手が俺の手を握った。炬燵で温まった手は俺の手よりも温かい。いつかの熱を思い出して背筋に電流が走る。俺の葛藤を知ってか知らずか、一松は猫が甘えるように握った手を頬に擦り寄せた。
――この熱を手放したくない。俺一人のものにしたい。
そんな邪な考えが浮かんでしまい、とうとう自分の中に芽生えた感情に目を逸らすことができなくなってしまった。
俺は、いつの間にか一松に恋をしてしまったんだな。
どこか他人事のように納得して、そっと息を吐いた。これからどうしたらいいんだろう。
◇ ◇ ◇
「松野くん――いや、葵ちゃんの方がいいかな、最近元気ないね」
店を訪れる頻度が増えた理由を詮索せずにいてくれる店長が、いつも通り女装して店を出る俺に声を掛けた。今日はウィッグだけ黒髪にして、一松に声を掛けられた日と同じ格好をしていた。今日は一松とのデートではない。
「そう、ですかね」
「うん。何か悩んでいるような顔をしてるよ」
心当たりがあって、すぐに返事ができなかった。店長はいつものように柔らかい微笑みを浮かべていて、その微笑みに途方もなく泣きつきたくなった。店長になら受け入れてもらえる妙な確信があった。
「個人の問題には口を出さないつもりだけど、葵ちゃんは、――松野くんは、自分で思っている以上に周りに受け入れられているはずだよ。だから、躍起になって自分を捨てなくていい、変わりたい自分も自分だってきみの一部だと認めていいんだよ」
ぐらりと視界が歪んだ。
「……ありがとうございます」
涙声になっていないだろうか。目を合わせずに扉を開ける。
「行ってらっしゃい」
いつになく優しい声が聞こえた。
化粧が落ちることも、向けられる人目も気にせず、無心で歩いた。行先は分からない。ただ、人を避けて、足が向いた方へまっすぐ、まっすぐ歩いた。
「――さん。葵さん!」
ぐっと右腕が掴まれた。顔を上げる。いつかと同じように紫のパーカーが視界に入る。
一番会いたくなかった人だ。
歪む視界で現在地を認識した。近くに一松が頻繁に訪れる路地があったはずだ。無心に歩いたのがアダになってしまった。
「いろいろ聞きたいことはありますけど……」
パーカーの袖で涙を拭われる。クリアになった視線の先に、一松が苦痛にでも耐えているかのように顔を歪めていた。なんでお前がそんな辛そうな顔をしているんだ。
「とりあえず、座って話でもしましょうか」
ああ、そうか、誰だって惚れた相手が泣いていたら心配するか。
一松がせっかく拭ってくれたのにまた涙が溢れた。慌てて袖で拭う一松が「ハンカチとか持ってなくてごめん」というのが聞こえた。
「葵さん、落ち着いた?」
近くの公園のベンチに二人で並んで座る。こくこく、と頷くと「ちょっと待ってて」と一松が離れた。何を聞かれるんだろう、と思うと溜息が零れる。日は傾き始めていて、気温が下がってくるのを肌で感じた。
「甘いので大丈夫でしたよね」
飲み物を買ってきたらしい一松からカフェオレを受け取る。缶は温かく、暖を取るように両手で包み込んだ。隣に座り直した一松の様子をそっと窺うと、タブに指をかけた一松が俺の視線に気づいた。
「あ、もしかしてブラックの方が良かったですか?」
ゆるゆると首を振ると「そうですか」と、タブを上げた。俺もそれにつられてタブに指をかけた。泣いて消耗した体に甘さと温かさが染みわたって、それだけでまた涙腺が緩くなってしまう。
しばらく二人で黙ってコーヒーを啜っていた。先に静寂を破ったのは一松の優しい声だった。
「髪色変えたんですね」
「……はい」
「初めてお話ししたときの服だったからもしかして、と思ったんですけど、髪色が違って他人の空似かなって声を掛けるのやめたんですよ、最初は」
そのまま声を掛けてくれなかったらよかったのに、とは言わず黙って続きを促した。
「でも、泣いてたから。自信はなかったけど、葵さんかもしれないと思って、だから、追っかけてきました。間違えてなくてよかった」
一松が俺の顔を覗き込む。あの熱を孕んだ瞳を見たくなくて俺は目だけ伏せた。
「泣いているあなたを放っておかずに済んだ」
嬉しいと思った。悲しいとも思った。
この愛情を受け取るには一松を騙し続けなければいけない。一松を騙さずにいるにはこの愛情を手放さなければならない。どちらに転んでも一松を傷つける結果になることは見えていた。それでも、一松を傷つけたくなくて、結論を先延ばしにしてしまった。俺は、なんてずるい男なんだろうな。
「僕で良ければ、泣いていた理由を聞かせてください」
優しい男だ。俺はそれを知っていた。十分に知っていた。
「……私は、」
全部はまだ曝け出せない。ずるくてごめんな、と何十回繰り返した謝罪を心の中で吐いた。
「私には、やめられない癖があるんです。人には言えない、『自分を捨てる』癖。自分が自分でいれるために必要なことだったんです、少なくとも私には」
一松の視線を一身に感じる。その視線に応えることはできなかった。頭の良い彼には見抜かれてしまいそうで。
「あるとき、『自分を捨てた』おかげで手に入りそうなものがありました。でも、手に入れるためには人を騙し続けなければいけなかった。手に入れたとしても『自分』はそれを手に入れることはできない。でも、私は、『自分』がそれを欲しかったんです」
一松の手が添えられて初めて、缶を握った自分の両手が小刻みに震えているのに気づいた。
「私はいつの間にか構築されていた『わたし』も嫌になった」
今日黒髪にしたのは、『葵』のときつけていたウィッグをやめたのはそのせいだった。『カラ松』どころか『葵』もやめたかった。
それでも一松に気付かれたのだから、結局意味はなかったのだけど。
「葵さん」
今まで黙って話を聞いていた一松が口を開いた。
「話してくれてありがとうございます。その、こんなこと僕が言って慰めになるか分かりませんけど、でも、捨てようとした自分も構築されてしまった自分も全部ひっくるめてあなただと思います。捨てようとしたあなたもきっと欲しいものは手に入りますよ」
かちりと目が合った。今までになく優しい瞳だった。すっとそれが細められて「日も暮れてきたんで帰りますか」と一松は立ち上がった。
別れ際に小さく「ありがとう」と告げると「どういたしまして」とだけ返ってきた。
泣きはらした目に気付かれたくなくて、帰宅するころにはすっかり夜も更けていた。誰も起きていませんように、と願って玄関の戸を開けるとちょうど居間から出てきた一松と鉢合わせた。どうして一松なんだ、と頭を抱えたくなったがそれを悟られないように「ただいま」と告げた。
「……遅かったね」
「俺くらいの男になると夜遊びの一つや二つ――」
「明日何も言われたくなかったら、目、冷やしとけよクソ松」
じゃあ寝るから、と階段を上がっていく一松を呆然と見送った。二階の襖が閉まる音でハッと我に返る。さすがに暗くても誤魔化せなかったか。理由を聞かないでくれただけでもありがたい。一松の助言に従ってから二階に上がると兄弟はみんな夢の中のようだった。
瞼の裏でこれからのことを考える。ぐるぐると思い悩んでも答えが出ない。最善の答えが出ないまま、ゆるゆると意識を手放してしまった。
◇ ◇ ◇
その日は珍しく、雨が降ってきた。
一松とのデートは以前と何ら変わりなかった。俺は結論が出せないまま、それでも女装してデートを楽しんでいた。
「あのさ、聞いてほしいことがあるんだ」
二人で並んで傘を差す。コンビニで買ったビニール傘は何も隠してくれなくて、恥ずかしそうに顔を逸らせた一松の耳の赤さまで見えてしまった。
とうとうこの時が来てしまったか。
死刑執行を待つ囚人のように恐怖と諦念を抱きつつ、目を瞑る。俺の沈黙を肯定と取ったのだろう、一松は慎重に言葉を選びながら話し始めた。
「もう、あなたは知ってると思いますけど、最初は一目惚れで声を掛けました。こんなクズで、社会不適合者の俺なのに、最初からあなたは拒絶しなかった。あろうことか今でもこうして会ってくれている。俺は、奇跡だと思った」
一松がふと足を止めた。俺も歩みをやめて一松を見やる。
「俺は、――僕は、あなたのことが好きです」
ちり、と心の底で焦げ付く音を聞いた。
「返事は今日聞かせてくれなくていいです。待ちますから」
早く断らなくては。頭の中でガンガンと鐘のように鳴り響く。それでも言葉が出てこない。一松は「待つから」とだけ繰り返した。
雨は翌日も降り続けた。
俺は知恵熱で寝込んでしまった。自分の感情と、なけなしの理性に処理能力が追い付かなかったらしい。兄弟たちは遠巻きに心配していてくれたようだが、基本的には放っておかれた。今の俺にはその方が都合が良かった。
「おい、起きろ」
小声で呼ばれ、うっすらと目を開ける。寝ている間に熱は下がったようだ。視界は暗く、話しかけた相手を認識しようと目を凝らす。
「さっさと着替えて下りてこい」
認識するよりも先に服が置かれる。顔は見えないものの、無愛想な物言いは一松に違いない。今が何時で、なぜ起こされたのかなんて聞けるはずもなく、ひとまず言われるがままに従った。
階段を下りると玄関で一松が俺を待っていた。
「なあ、一松――」
「いいからついてきて」
そのまま玄関を出る。冷気で布団で温まっていた身体が一気に冷えていく。あたりはうっすらと明るくて、もうすぐ夜が明けるのだと感じた。
「一松」
自分の前を歩く背中に声を掛ける。
「何」
「飲み物でも買わないか?寒いだろう?」
「そう、だね」
近くにあった自動販売機で飲み物を買おうとしたところで自分が財布を持ってきていないことに気づいた。固まってしまった俺に気が付いたのか、一松は鼻を鳴らして二人分の飲み物を買った。
「……すまん」
「さっさと来いって言ったからね」
ぶっきらぼうに渡されたのはカフェオレで、俺は既視感に眩暈がした。それを言うわけにもいかず、奢ってもらった立場なので黙って受け取った。
歩いていく間の会話は一切なかった。目的地があるのか一松の歩みは速い。歩いていくうちに少しずつ少しずつ空が白んでいく。
「俺さ」
一松が足を止めて、おもむろに話し始めた。橋の真ん中から見える開けた景色の先には太陽が少しずつ顔を出していて、前日までの雨のせいか空気がきらきらと輝いて見えた。太陽を背にした一松の表情は見えない。
「一目惚れしたってあんたに言ったじゃん」
「ああ」
それを聞いたのはいつだっただろう。純粋に応援しようと思っていた頃が懐かしい。
「あれから、その人に偶然会えて、奇跡的にデートにまでこぎつけたんだ」
奇跡。同じ言葉で一松は出会いを語る。急に鼻の奥がツンとした。
「最初から俺は良い感じになったら告白しようかな、って思ってた。初対面で拒絶されたくないし。で、見事に良い感じの空気になっていって、これは、って思った。自惚れでもいい、俺は今ならいけるかもしれないって舞い上がってた」
一松が俺から視線を外す。逆光で相変わらず顔は見えないままだ。
「でも、その人泣いたんだ。俺の知らないところで知らない悩みを抱えて苦しんでた」
ハァ、と溜息が聞こえる。
「……覚えてると思うけど、俺、あんたに、捨てようとした自分でも手に入るって言ったよね。泣いたあんたに言ったよね」
忘れるはずもなかった。でも、それを言われたのは――。
「知恵熱出すまで悩まないでくれる?あんた、頭空っぽなんだからさ、バカみたいにあんとき頷いてくれればよかったんだよ」
「いちま――」
「カラ松、俺さ、あんたがカラ松でも葵さんでもどっちでもいいよ」
カランと金属音が鳴って、俺は缶を落としてしまったのだと他人事のように認識した。
遅れてじわじわと手から熱が伝わってくる。熱が顔まで到達してようやく一松に手を握られていることが分かった。
「な、……一松……?」
一松の向こう側に見える景色がちかちかと瞬いて見える。手のひらが、顔が、全身が熱い。熱源は確認せずとも分かっている。
「待つとは言ったけど、確かに待てるけど、あんたが返事をくれるまで何回でも言ってやる」
腕が乱暴に引かれて一松の胸に収まる。
なんで、とか、いつから、とか疑問が渦巻いていてもどれも音にはならなかった。ぎゅっと抱きしめられると非現実的な多幸感で涙が溢れてきた。これは夢なのか、現実なのか分からなかった。
「俺、カラ松のことが好きだよ」
耳元で聞こえる声は間違いなく一松のもので、感じる体温も心音も、きらきらと輝く世界も何もかも現実のものだった。
「――嘘、だろ……?だって、俺は、」
「御託なんて後で聞くよ。どうなの、カラ松。俺はあんたに聞いてんだよ」
「そんなの、聞かなくても分かるんだろ」
「うん、でも、あんたの口から聞きたい。――俺のこと、好き?」
「好き」
一松の肩口に顔を埋めて呟いた。俺の涙で濡れているのも気にせずに一松は優しく俺の背中をさすった。
「うん」
「ありがとう、一松」
「なんで?」
「分かんないけど、すげえありがとうって思う。俺もよく分かんない」
「そっか」
一松が腕の力を抜いて、どちらともなく身体を離す。俺の涙を一松が袖で乱暴に拭う。
「相変わらずハンカチ持ってなくてスイマセンね」
苛立たしげな口調とは裏腹に一松の耳は真っ赤に染まっていて、『カラ松』のときもこの表情が見れるのだと実感して無性に嬉しくなった。
「なに、なんでにやにやしてんの、ムカつく」
「教えない」
ニカッと笑うと舌打ちと同時にふくらはぎを蹴られた。どれもこれも照れ隠しだろう!そう思うと口元が緩んでしまい、だらしない顔をしてるんだろうと思う。
「カラ松、帰ろうか」
一松が手を差し出す。俺は迷うことなくその手を取った。
◇ ◇ ◇
「いらっしゃい、松野くん。もう復活したの?」
「おかげさまで」
店長は満足そうに目を細めて、いつものように俺を案内してくれた。フィッティングルームに来ると、いつまでも慣れることのない胸の高鳴りを感じる。
「じゃあ、何かあったら声かけてね」
「ありがとうございます」
俺の変身願望からくる女装癖はまだなくなりそうにない。『自分以外の誰か』になる以前に女装の楽しさを知ってしまった。きっとこれからも俺は変わらず店の扉を叩く。
唯一変わったことと言えば――。
「遅えよ、カラ松」
「約束の時間には間に合ってるだろ!何時からいたんだ、一松!」
「カラ松が家を出てすぐ来た」
「そ、そんなに待ってたのか。悪い」
「まあ、時間守ってたから許してやるよ。今日はどうする、カラ松――あ、葵ちゃん、の方が良い?」
「……カラ松でいい」
「ん、じゃあ行こうか」
俺が『松野カラ松』でもそうでなくても隣にいてくれる人が、受け入れてくれる人ができたことだろうか。
女装癖のあるカラ松が書きたかったという勢いで書き上げた作品。人生で初めて一万字も書いた。
作中に出てくる名もなき店長と店員さん、常連さんはゆくえ萌葱さんの「乙女心に恋心」というBL漫画のインスパイア?オマージュ?です。ゆくえ萌葱さんの作品好きなのが多いのですごくおすすめしたい。
カラ松が恋心を自覚したあたりで、店員さんとお茶する話を入れたかったんですが、冗長的になりそうだったのと、店員さん(桃子ちゃん)の名前を出さなけれならなくなりそうだったので泣く泣くカットしました。
以下、蛇足なので反転しておきます。
一松が「カラ松=葵」だと気づくきっかけは炬燵で寝てるあたりかなと思ってます。無意識にカラ松の手を葵さんの手と重ねて擦り寄っているはず。
で、「あ、こいつカラ松だ」と確信したのは葵さん(カラ松)が泣いてたとき。黒髪だし化粧落ちてるし。気づいたあたりから一松は「葵さん」と呼ばなくなってます。
逆にカラ松は恋心を自覚したあたりから、自分のことを兄と、一松のことを弟と称することが減っていたりします。
そんな些細なこだわりでした。