松野家の朝は遅い。しかし、余程のことがない限り同じような時間に起き、全員で食卓を囲む。今日偶然四男の一松が最後に布団を出たというだけなのだ。
「なにこれ」
一松は覚めきれない頭で状況を把握しようと努めた。周りに兄弟は誰もいない。階下が賑やかなため、自分を除く全員が既に階下にいることは明らかである。そこまでは何ら変哲のない日常だ。問題は枕の下に挟まっている白い封筒だ。宛先も差出人もない。封がされていて、厚みを感じることから中に何かしらが入っていることは想像に難くない。そして、その中身は恐らく便箋だろう。一松が疑問に思っているのは、この手紙が誰に宛てられたもので、誰から差し出されているかという点である。
階下から自分を呼ぶ声がして、一松は考えるのを止めた。手紙のことをごちゃごちゃ考えるよりも、今は朝食を優先すべきだ。乱暴にパジャマのポケットに封筒を突っ込んで一松は階段を下りた。
一松はその封筒をいつもの路地裏で開けることにした。足元には餌に釣られて野良猫が何匹かやってきている。擦り寄ってきた猫の喉元を撫でながら、適当に腰を下ろす。自宅で開けなかったことに理由はない。ただなんとなく一人で開けた方がいいと思ったからだった。
しっかりと糊付けされていたため、中身を破いてしまわないように封筒の端を千切る。封筒と同じく白い二つ折りにされた便箋がでてきた。これが自分宛じゃなかったらどうしようか、と少し躊躇したが、一松は開き直って手紙を開いた。
――拝啓 松野一松様
ビンゴ。一松は自分宛で良かった、と胸を撫で下ろした。他の兄弟宛である場合、次の対応を考えなければならないのが面倒だったからだ。内容を読む前にどこかに差出人が書いてないか探す。便箋は三枚にも及んでいたがどこにも差出人らしい名前は記されていなかった。
「チッ、いたずらか?」
一松の声に猫がにゃあと反応を返した。猫からだったら面白いんだけどな。一松はファンタジーにも似たことを考えながら一枚目の便箋に視線を戻した。
拝啓 松野一松様
突然の手紙で驚かせてしまったでしょうか。手紙でなら本音が話せるのではないかと思い筆を執りました。
一行読んだところで一松は差出人を察した。少々癖のある力強い字には見覚えがある。そしてスマートフォンという便利な機器があるご時世にもかかわらず、手紙という回りくどい方法を取る人物にも心当たりしかなかった。
差出人が思い浮かんだところで、一松は便箋から視線を離した。続きを読むか、否か。一松は深い溜息をついて、まずは遊べとばかりにじゃれついてくる猫たちに構うことにした。
「釣れないね、カラ松兄さん」
「そうだな」
よく来る釣り堀でトド松はふうと息をついた。横目で兄、カラ松の様子を見やるがサングラスに阻まれてその表情は窺い知ることができない。今日はイタイ派手なズボンを穿いていないだけマシか、と思い直してトド松は変化のない水面に目を戻した。
「釣れるといいな」
今度はカラ松が声を上げる番だった。そうだね、とトド松は適当に相槌を打つ。
「そういえば、カラ松兄さん何つけてるの」
以前は手紙だの花束だのを持ってきていた。トド松は一抹の不安を抱えながらカラ松に尋ねた。
「手紙」
「またァ!?バカじゃないの?」
トド松は思わず立ち上がり、信じられないという目で兄を見る。前回で懲りたと思っていたのに。本当にオカルトかもしれない。
「まさか花束もあるなんて言わないよね?」
「いや、さすがに花束は喜んでくれないだろうし、目立つからな」
カラ松の返答に、トド松は違和感を覚えた。会話がどことなく噛みあってない。そういえば、さっき餌一緒に買わなかったっけ?トド松は瞬時に思い出す。今日は餌をつけるところまで見ていたはずだ。どのタイミングで手紙をつけたのだろうか。ストンとトド松は腰を下ろす。じっと見つめる視線にカラ松は一瞬きょとんとした表情を浮かべ、合点がいったのか「すまない」と笑った。
「魚の話じゃないんだ。今日はちゃんとした餌だ」
カラ松はすっと釣り竿を引き上げて針の先をトド松に示した。
「カラ松兄さん、餌だけ食べられてるよ」
「えっ」
針の先には何も残っていなかった。がくりと肩を落とすカラ松に「鈍くさいなあ」とトド松は笑った。
一松は自動販売機で買った缶コーヒーを飲みながらカラ松から宛てられた手紙を読み始めた。
突然の手紙で驚かせてしまったでしょうか。手紙でなら本音が話せるのではないかと思い筆を執りました。
なぜ手紙にしたかというと、差出人のない手紙ならもしかすると最後まで読んでくれるかもしれないと期待したからです。メールでは差出人が分かってしまうし、味がないかと思ったのです。
メールじゃなくても筆跡で誰か分かるんだよクソ松。手紙に向かってひとりごちる。確かにメールだったら読まなかっただろうなと思うと、カラ松の本気具合が見えた気がした。
そこから中身のない話が続いた。一松の印象に辛うじて引っかかったのは深夜に月明かりを頼りに手紙を書いているということくらいだった。脱線に脱線を重ねて「さて、本題ですが」と綴られているあたりには二枚目の半分を過ぎていた。なかなか本題に入らなかった手紙を読み続けていたことに一松自身が驚いたが、きざったらしい言い回しが少ないせいだと気づいた。
――さて、本題ですが、俺は一松のことをもっと知りたいと思っています。
一松は盛大に溜息をついた。本題に入ったと思ったらこれか。余計なお世話だ。俺のことを知ってどうする。目の前で言われているのなら胸倉を掴めば口を噤んでくれるが、生憎本人は近くにいない。苛立ちをやり過ごすために一松は煙草に火をつけた。
一松が自分を嫌っていることは知っている。でも自分は一松のことを信じている、もっと仲良くしたいと思っている。だから一松のことを知れば歩み寄れると思う。といった、一松に言わせればお節介のオンパレードが並んでいた。一松は自覚しているレベルで口より手が出るほうが速い男だ。面と向かって言われていれば確実に最後まで言わせなかっただろう。しかし、普段ならば決して聞くことのないだろう言葉の数々に、興味が湧いたのも事実。自然と文字を追うスピードも上がる。どうしてここまで食い下がる。ふと浮かんだ疑問に答えるかのように、カラ松の性格を示したような力強い字が浮かんだ。
――一松、俺はお前と親しくなりたい。
「は?」
思わず声が出た。一松が突然声を出したことに驚いたのか猫が警戒の表情を見せた。そんな猫の様子にも気づかず、一松はその一文を穴が空くほど見つめた。
親しくなりたい?何のために?今更仲良しこよしの兄弟になりたいとでも?というよりそんなに他の兄弟と仲良かったか?昔も仲良かったか?今までの敬体はどうした?急に文体変わったし何がしたいんだこいつ?
一松の頭の中は疑問符で埋め尽くされていた。一松にとって元々カラ松の思考回路は理解できないものだったが、この手紙はまさに理解できない理屈だらけだった。読み進めていけば何か答えが分かるかもしれない。そう思って読み進めるも、手紙の最後は「もし良ければ返事をください」と締めくくられていた。だらだらと書き綴られた便箋から目を離し、長く息を吐いた。何なんだ、これは。一松は混乱したままの頭をゆるゆると振って、分かる範囲で手紙の内容を反芻した。
俺と仲良くなりたいから俺のことを知りたいって、それってほとんど――。
ある結論に辿り着いて一松は思わず便箋を落とした。一松の中で全ての辻褄が合った。が、同時に、自分で導いた結論に一松は頭を鈍器で殴られたような衝撃を感じた。
こんなの、まるでラブレターじゃないか!
カラ松達が帰宅すると他の兄弟達は既に居間に揃っていた。
「おー、おかえり。今日は釣れたのか?」
おそ松がニッと歯を見せると、カラ松の隣でトド松が肩を竦めた。
「全っ然!今日はカラ松兄さんもマトモにしてたんだけどねぇ」
「フッ、やはり俺の愛の深さを見せないとダメだということだな」
カラ松の返答にトド松は冷ややかな視線を投げ、ドサリと定位置に座った。反応が無いことを気にする素振りも見せずカラ松もそれに続いて腰を下ろした。
「そうそう、今日の晩ごはん、唐揚げだってー!」
十四松が嬉しそうに二人に告げる声で会話は何事もなかったかのように再開した。カラ松はサングラスを外しながら一松を盗み見た。テレビをぼーっと眺めている横顔はいつも通りだ。手紙は読んでくれただろうか。期待と不安がカラ松の胸で渦巻いていた。
筆跡はカラ松のものだと思ったが、果たして、本当にあの手紙の差出人はカラ松だったのか。夕食を奪い合いながら一松は何度目かの疑問を浮かべていた。好物というだけあっておかずの取り合いに勝利したカラ松の表情からは唐揚げを堪能できる喜びしか窺えない。小さく舌打ちする。隣に座るチョロ松がちらと視線を寄越したが、問題はないと判断して再び勃発したおかずの取り合いに参戦した。一松も物思いに耽っていることが怪しまれないように参戦するため、箸を伸ばした。
差出人の見当がついたその場で手紙を破棄しなかったのはなぜか。簡単だ、考えの読めないカラ松が何を思って同じ屋根の下で暮らす兄弟に手紙を送るなんて回りくどいことをしたのか興味があったからだ。手紙には告白めいた文こそなかったが、何度読んでも自分宛のラブレターを読むようなむず痒い気持ちになった。同じ顔をした男兄弟にラブレターを宛てられたとあれば、それこそ唾棄すべきことだが、一松はなぜかそこまでの嫌悪感は抱かなかった。結局三度も手紙を読み直し、今もポケットに入れたままでいる。なぜ嫌悪感を抱かなかったのか。差出人の真意以上に一松は自分の心情に対して首をかしげていた。
こうなったら――。一松は疑問を少しでも解消するために賭けに出ることにした。
数日後、カラ松は兄弟で揃いのパーカーに何か入っていることに気が付いた。ポケットから取り出したのは封筒だった。差出人も宛名もない封筒に既視感を覚えた。もしかして、と逸る気持ちを抑えて一人になれる場所を探した。
幸いにも兄弟は全員出掛けており、カラ松はほっと息をつく。糊付けされていない封筒からは見覚えのある白い便箋が出てきた。これが自分の宛てた手紙でないことに思わず頬が緩む。
カラ松が一松に手紙を宛てた動機は至って単純なものだった。兄弟愛の一線を越えた愛情だ。情欲を孕んだ感情はカラ松を内側からじりじりと焦がしていった。しばらくは背徳感に駆られながらも兄弟として接することができていた。少なくともできていた、とカラ松自身は自負している。しかし、一松のカラ松への風当たりが強くなっていき、カラ松を焦がす熱量は加速していった。持て余した感情の発散として取った手段が手紙だった。無視される確率の高いメールよりも手紙の方がいいとカラ松にしては賢明な判断を下した。
どうやら結果オーライらしい。
期待と不安で震える指で二つ折りにされた便箋を開くと、細くてハネ・ハライの少ない文字が並んでいた。間違いなく一松の字だ。返事が来たという事実だけで叫んでしまいそうだった。
前略
本当は返事なんて書くつもりはなかったが、どうしても確かめたいことがあったから書くことにした。手紙の作法なんて知ったこっちゃないから書きたいように書こうと思う。
まず、手紙についてだが、正直驚いた。回りくどいことをするなと思った。最初捨てようかと思ったが、読んでるうちにどうでもよくなってこうして返事まで書いてしまう始末だ。自分でもまだ驚いている。俺のことを知りたいと書いてあったがそれだけのことを伝えるために便箋三枚も費やすなんて無駄だろう。手紙自体回りくどいのにさらに回りくどい表現をするな。読みにくい。
それで、確かめたいことなんだが、お前は俺にどうしてほしいんだ。わざわざ手紙を書いてまで何を求めているんだ。回りくどい手紙を何回も読んでやったが、未だに分からない。仲良くなりたいって何だ。俺の何を知りたいんだ。
ややこしい言い回しのない返信なら次も読んでやる。
一松
長くない手紙を時間をかけて読み、カラ松は安堵の溜息を漏らした。次も読んでやる、ということはどうやら拒絶はされていないらしい。このささやかな交流は続けてもいいようだ。これはつまり第一段階クリア、ということだ。それにしても、とカラ松は思う。丁寧な文字で乱雑な言葉がつづられていて、まるで一松自身を体現しているようじゃないか。
さすがに告白は焦りすぎだよな、と思いつつカラ松はレターセットを引っ張り出した。
カラ松に返事を書いた翌日、一松は自分がカラ松にしたように、パーカーのポケットから手紙を見つけた。返事の早さに若干引いたが、同時に嬉しくもある自分に気付いていた。なんか最近調子が狂う。誰も見ていないと分かりつつも舌打ちが零れた。
俺の何が知りたいんだ、という一松の問いに対してカラ松の答えは至極シンプルなものだった。お前の全てが知りたい。相も変わらずラブレターのようで顔が一気に火照る。こんな告白じみたセリフを送ってくる奴も頭おかしいけど、それに嬉しくなる俺も大概頭がおかしい。気分を落ち着けるために煙草に一本取り出した。煙が肺に充満するのを感じて、少し思考がクリアになった。回りくどい表現は止めろという一松の言葉を素直に受けたのか最初に貰った手紙に比べて格段に読みやすいことに気づいたのは二本目の煙草に火をつけたときだった。
返事ありがとう。正直お前が返事を書いてくれるなんて思ってもみなかった。嬉しくて嬉しくて、早速返事を書く。
ややこしい言い回しがなければ読んでくれるとのことなので率直に述べようと思う。
俺は一松、お前の全てが知りたい。一松が何を見て、感じて、そして何を考えているのかが知りたい。同じ目線で世界を感じてみたいんだ。
仲良くなるというより一緒に話がしたいな、と思うよ。例えば一松の可愛がってる猫たちについてとか。
返事は急がなくていい。
カラ松
カラ松の真意を聞きだすために返事を書く。これが一松の取った賭けだった。ついでに自分の心情が整理できれば儲けもの、くらいのものだ。前者については功を奏したらしい。
便箋はところどころふやけていて、どんな顔してカラ松が手紙を書いたか簡単に想像できる。嬉しくても泣くのがカラ松だ。一松はささやかな優越感に目を細めた。カラ松は一松に対して特に感情の起伏が激しい。直接見れなくて残念だが、自分の一挙手一投足に感情を振り回すカラ松のことを思うとつい口角が上がる。この茶番に付き合ってやるか。一松は手紙をポケットにねじりこむ。五分後、猫缶を片手に行き慣れた路地裏に玄関の戸を引いた。
カラ松の予想に反して、一松との文通は長く続いた。
一松からの返事には猫の足跡がつくこともあった。猫に踏まれたにしてはきれいに跡が残っているので、一松がわざわざ跡をつけたのだろう。猫を抱えて手紙を書く姿を想像してはカラ松は胸が温かくなった。普段の応対は以前と変わらず素っ気ないものだったが、カラ松にとっては全く違って見えた。
文通が続くことを嬉しく思う一方で、カラ松は自分の心情を吐露する機会を逃していた。一言書けばいいものだが、一松に拒絶されたらと思うと手が震えて書けない。加えて、この穏やかなやり取りをやめてしまうのも惜しい。
そうしてカラ松は当たり障りのない趣味の話に興じるのだ。
「ねえ」
手紙の中以外で一松がカラ松に声を掛けるのはかなり珍しい。カラ松は予想外の出来事に、持っていた手鏡を落としてしまった。
「ど、どうした?」
一松が声を掛けた相手が俺以外の兄弟であってくれ、と願ったが部屋にはカラ松と一松の二人しかいない。自分が呼ばれたことは明白で、恐る恐るカラ松は一松に言葉を返す。いくら手紙の中では普通に接しているとはいえ、口を開けば一松からの風当たりは厳しいものでつい身を固くしてしまう。
カラ松の胸中は露知らず、一松は猫を膝に乗せたまま手招きした。呼ばれるままにカラ松が一松の隣に移動する。素直に自分の隣に座ったことに口の端を上げ、一松は猫を抱き上げた。
「こいつ、前に話したと思うけど、俺の推しメン」
一松に紹介された猫はカラ松と目が合うと、挨拶のようににゃあと鳴いた。
突然のことで理解が追いついてないカラ松に猫を押し付けると「やっと人慣れしたんだよ」と一松は目を細めた。あ、嬉しそうだ。カラ松は直感的に理解した。甘えるように擦り寄ってくる猫をそっと撫でながら最近のやり取りを思い返す。
「あの、二丁目の美人猫か!」
カラ松が膝を打つと一松が「そ」とだけ返した。褒められたのが分かったのか、再び猫がにゃあと鳴いた。
美人な割に活発だった猫に散々構い倒して、ようやくカラ松は疑問を口にした。
「なあ、一松」
カラ松の膝で眠る猫を愛しそうに撫でながら、一松は普段から考えられないほど優しい声音で「何?」と聞き返した。
「なんで急に猫を紹介してくれたんだ?」
「はぁ、散々遊び倒してから言うこと?」
呆れたように息をつく一松にカラ松は言葉を詰まらせた。せっかく和やかな空気だったのに!俺のばか。機嫌を悪くさせたかなと顔を青くするカラ松とは裏腹に、一松は顔を赤くして「あんたが俺のこと知りたいって言ったんじゃん」と口ごもった。
「えっ」
「こいつのこと自慢したやりたかったけど、写真撮らせてくれねえし、っていうかそもそもメールじゃねえから写真現像とか考えると面倒だし。だから人慣れさせて連れてきてやろうと思って。なんで今日かっていうとそんなの理由なくてただ単純に今ちょうどあんたしかここにいなかったからだよ」
一松は一気に捲し立てるとバッと立ち上がった。
「トイレ。そいつ起こしたらぶっ殺す」
口が開いたままのカラ松を置いて一松は部屋を出た。去り際に見えた耳が赤くなっていることに気付いてカラ松も頬を赤くした。
これは期待してもいいんだろうか。カラ松は便箋に向かって低く唸った。猫の一件以来、一松と二人でいるときの態度が軟化している。一松も満更ではない様子に見えて、もしかしてこれは両思いなのではないかと地に足がつかない心地だ。
パンと自らの両頬を張った。腹はくくった。カラ松は急いでペンを走らせた。
「一松、これ」
カラ松が兄弟の目を盗んで渡したのはいつもの封筒だ。普段なら間接的に渡している手紙を直接手渡しされて一松は咄嗟に反応できなかった。カラ松は一松の手に手紙を押し付けて「俺、今日は一日中釣り堀にいるから」と一方的に告げて家を出た。
「どういうことだよ」
絞り出した一松の声はカラ松には届かなかった。
「カラ松、どこ行くんだ?」
玄関を出たところでチョロ松に声を掛けられる。端的に「釣り」とだけ答えると、「そっか。今日は釣れそう?」と返ってきた。
「フッ、それは神のみぞ知ることだ」
「……まあ、がんばってこいよ」
呆れ声を背に引き戸を閉めた。釣れてくれれば最高なんだが。緊張で震える手足を叱咤して、釣り堀に向かった。
一松は手紙を開く気になかなかなれなかった。開けば自分たちの関係性が崩れてしまう予感がした。
いや、既に崩れ始めているのかもしれない。一松は兄弟たちにも、もちろんカラ松にも隠していた今までの手紙を引っ張り出した。バラバラと開封していく。俺のことが知りたいと言ったカラ松。手紙はいつも胸の奥のやわらかいところにそっと触れてくるようで温かかった。その温かさが心地良くてたまらなかった。手放すことが惜しいくらいに。
「よう」
一松が路地裏に入るといつかの猫がにゃあと答えた。
「いつ見ても美人だな、お前は」
呟きながら腰を下ろすとするりと寄ってきた。甘える様子に一松は表情を緩める。猫を抱きかかえて一松は封を開けた。
「今日は、釣れたの」
カラ松は振り返らずに「魚はまだだな」と答えた。声の主はドサリとカラ松の隣に陣取って、釣り糸を垂らした。
「俺、あんたとの手紙、存外楽しかったよ」
水面を見つめたまま一松は独り言のように口を開いた。カラ松もまた、揺れない釣り糸の先を見たままだ。
「最初は何かの冗談かと思った。ラブレターみたいだったし。でもまあ、いつものイタさに比べればマシだったし付き合ってやろうかなって思った。完全な気まぐれ。やっぱり手紙って貰うと嬉しいもんだよな。大した内容じゃないのに、って俺はそう思ってた。でもさ、」
一松の手に重みがかかった。空気読めよこの野郎。思わず舌打ちする。
「あんたは最初っからラブレターのつもりだったんだな」
難なく魚を釣り上げた一松は、それをカラ松の目の前に差し出した。
「一松?」
なんで魚?確かに釣れてなかったけど。カラ松は困惑して一松の顔を見た。
「……やっと目が合った」
瞳の奥が揺れているように見えたのは錯覚か、それとも、自分の瞳が揺れているのか。
「なんでお前がそんな顔してるんだよ」
「人のこと言えねえ顔してるよ、お前も。返事聞くんじゃねえの」
「聞く」
「その前に俺はお前の口から聞いてほしいんだけど」
一松から魚をひったくり、カラ松は真っ赤になりながら口を開いた。
「俺は、一松、お前のことが好きだ」
「……俺も」
「おい、ずるいぞ一松。ちゃんと返事を聞かせてくれ」
「チッ。俺も好きだよ、カラ松」
ああ、揺らいだ瞳はどちらともか。
言葉を失い赤面する二人に、使命を果たしたと言わんばかりに魚はするりと水中へ戻っていった。
タイトルは寺山修司の詩より。
二人で小さな秘密を共有して仲を深めていく話が好きなんですよね。
15/12/05