「一松兄さん、クマひっどいよ?昨日は寝れなかったの?」
ふと末弟の――トド松の声が耳に飛び込んできた。声は居間からする。いくら兄弟間とはいえ盗み聞きはまずかろう、と思うものの障子の向こうでの会話に耳をそばだててしまう。すまない、一松、トド松。心の中で謝った。これが他愛ない話なら聞き耳を立てることもなかった。ただ、今回ばかりは勝手が違う。
俺は隣で寝ている弟の様子に気付かないほど鈍い兄ではない(と思っている)。自己表現に関して他の兄弟より一層不器用な弟だ。殊更、何か異変があれば気づいてあげたいし、悩みがあるなら力になりたかった。たとえこの思いが一方通行であったとしても、だ。だからトド松と一松の会話はまたとないチャンスだった。
「別に何でもない」
「俺さ、時々兄さんが寝れてないのは知ってたよ。でも、最近頻繁になってるよね」
心の中で俺は敏い末弟を褒めた。ナイスだ、トド松!俺の疑問を読み取っているのではないかと恐ろしくなるほど、同じ疑問が一松に投げかけられる。対する一松の返答は聞こえない。どんな表情をしているんだ。見えないことがもどかしい。
「あれ、気づかれてないと思ってた?他の兄さん達は知らないけど、俺は気づいてたよ。寝れてないときの一松兄さん、人殺しそうな顔してるからすぐわかるもん」
それは言い過ぎではないのか。トド松の発言にギョッとしたが、弟に手を上げはしないらしい。一松は「そう」と一言だけ返していた。
「あ、ホットミルクを飲むといいって聞いたことあるから試してみたら?」
「そうする。心配かけて悪かったな」
「一松兄さんが素直なんて明日は雪?」
「何、その反応。俺だって心配されたら礼くらい言うよ」
弟たちの和やかな空気にそっとその場から離れる。肝心な原因は分からなかったが、やはり一松が眠れていないということは分かった。それだけでも収穫だ。余計な気を回して逆上させてしまうのは本懐ではない。
さて、俺も出かけるかな。そう思って靴を引っ掛けた矢先、「カラ松兄さん」と声を掛けられた。トド松だった。
「あのさ、ちょっと付き合ってほしいんだけど」
「別に構わないが、どうかしたのか?」
なぜ急にトド松に誘われたのか理解できずに素直に問うと、にっこりと笑って親指を人差し指で丸をつくった。
「弟の会話を盗み聞きするなんてイイ神経してるよね、カラ松兄さん」
思い当たる節しかなくて苦笑するしかなかった。
「いや〜、カラ松兄さん、話が早くって助かるよ!」
生クリームたっぷりのケーキを頬張りながら末弟は満面の笑みを浮かべた。もちろん俺の奢りだ。どう返していいのか分からず、自分の分のラテに口をつける。
「トド松、」
「分かってるって。一松兄さんにはこのことナイショにしておくから」
長男と同じくらいがめつい末弟がケーキひとつで要求を呑むとは思えなかった。これ以上何か要求されたら困る。顔にありありと書いてあったのか、トド松は俺を見て噴き出す。
「そんな顔しなくても言わないよ。なんでか知らないけど、一松兄さんも寝れてないこと知られたくないみたいだし」
「そ、そうか。ありがとな」
「ちょうどこの店の新作ケーキ食べたかったところだからいいよ」
余程嬉しいのかいつも以上ににこにこしている。こうしてトド松とは喫茶店に来ることは他の兄弟と比べて少なくないのだが、ここまで嬉しそうなのは初めて見たかもしれない。
「それにしても心配だな」
ケーキを食べ終わって、ぽつりと零した。さっきまでとは一変して深刻な表情をしている。誰が心配か、なんて聞かずとも分かる。一松のことだ。
「何か原因でもあるんだろうか」
「さあね。一松兄さん、あんまり自分のこと話さないからさ。悩みとかよく分かんないや」
「そうだよなあ。トド松も分からないなら誰も分からないな」
力になろうにも、原因が分からなければ手が出せない。思わず溜息が漏れる。ここで二人でも悩んでも仕方ないと、その場は解散した。女の子と待ち合わせてるんだったと小走りに去った弟を見送って、あてどもなく、帰路についた。
「あれ、一松だけか」
誰かしら家にいると思っていたが一松だけとは。一松は静かな部屋の隅で猫を抱えて寝息を立てていた。今朝トド松が指摘していたように、目の下にはクマが浮かんでいた。いくら寝不足だからといって居間で寝ているのは心配だ。
「こんなところで寝ると風邪引くぞ」
一松の肩を揺する。瞼がぴくりと動いた。気が付いたかと思ったが、まだ寝ぼけているらしい。喉の奥で僅かに唸って、拒絶を示した。起きるつもりはないらしい。せめて、何か掛けるものでも持ってこよう。一松を起こしてしまわないようにそっと二階へ上がった。
「ほら、毛布持ってきたぞ」
聞こえてはいないだろうが、声を掛けたくなってしまう。無意識に理解したのか、僅かに表情が和らいだ。同い年とはいえ、あどけない弟の寝顔は可愛いもんだ。だからこそ悩みがあるなら力になりたい。だって、俺はお前の兄なのだから。
「なあ一松、」
手が思わず一松の頭に伸びる。これで起きたら怒られるんだろうな。そう思いつつも止められなかった。
「何か悩みがあるなら、俺じゃなくてもいい、兄弟を頼れよ」
俺を頼れよ、とは言えないのが情けなかったが、きっと俺には相談してくれないだろうなという予感があった。普段から俺に対して素っ気ない態度を取る一松がよりによって悩みを相談してくれるとはさすがに思い難い。
「頼ってくれると嬉しいんだけどな」
思わず本音が漏れてしまったが、これも聞こえてはいないだろう。
あれ以降も一松の不眠は続いているようだった。毎回気づいているわけじゃないだろうから、きっと俺が認識している以上に眠れていないに違いない。
それに、トド松が提案したホットミルクも試していないようだった。余計なお世話だろうが、そっと一松にホットミルクでも勧めてみようか。
ある夜、隣で一松が布団から抜け出す気配で目が覚めた。何となく心配になって俺も少し間を置いてから布団を抜け出した。さすがに用を足しに起きたなら放っておいて寝るが、直感的にそうではないと悟った。幸いにも探し人はすぐ見つかった。
「ホットミルクってどうやって作るっけ」
明かりのついた台所を覗くと何かを手に立ち竦んでいる一松の背中が見えた。ぼそりと呟かれた言葉から察するに手にしているのは牛乳パックだろう。
「電子レンジで温めればいいだろ」
思わず声を掛けてしまった。一松の肩が跳ねたのに気が付く。
「げ。カラ松、なんでいんの」
心底嫌そうに尋ねられて、どう答えるのが正解か咄嗟に考える。心配だから、なんて言えばそれこそ殴られそうだ。
「フッ、闇の世界に呼ばれたんだ。俺は暗闇に愛され――」
「そういうのいいから」
最後まで言い終わらないうちに遮られてしまった。条件反射で涙が出てきたが、今は泣いてる場合じゃない。目的を思い出して、一松の手から牛乳パックを抜き取る。パックは強く握られたかのように変形していた。もしかして、さっき俺が突然声を掛けたせいか?
「一松、ホットミルクは電子レンジでも作れるんだぜ」
作り方調べておいてよかった。心の中でガッツポーズをしながら一松の分のマグカップを電子レンジに入れる。俺も飲みたくなったので、自分の分のマグカップを手に取った。
「だから、なんでここにいんの」
「なんで、って」
声音がやや苛立ってる気がする。変なことを言うと怒られそうだし、言い訳も思いつかなかった。
「そりゃお前が心配だったからに決まってるじゃないか」
それ以外に理由が要るのか、と言いたかったが余計な気がしてやめた。一松は何が心配なのかとは聞き返さなかった。ちょうど温め終わったマグカップを一松の前に置く。
「ほら、とりあえず飲め」
飲んだらきっと寝れるから。そう心の中で付け足した。
自分の分を電子レンジに入れ、スイッチを押す。一松は手に取ったマグカップを見つめたまま何も言わない。俺は余計なことを言ってしまいそうで何も言えない。台所にはブーンと低い無機質な音が響いていた。
「聞かないの」
永遠とも思える静寂を破ったのは弟だった。同時に電子音が鳴る。
「え?」
電子音に気をとられ、聞き返す。
「聞かないの?俺が、ここにいる理由」
手にしたマグカップはちょうどいい温かさだった。俯いた一松からは何の意図も読み取れない。聞いてもいいのだろうか。まだ誰も踏み入れていない新雪に足跡をつけるような緊張感を抱いた。
「聞いてほしいのか、一松」
ゆっくりと確認するように名前を呼ぶ。一松は返事の代わりに、のろのろとマグカップに口をつけた。急かすつもりはないので、一松と同じようにホットミルクを飲む。喉元を過ぎた温かさに、これは確かによく眠れそうだ、と思う。
今度は完全な静寂が二人を包んだ。
マグカップの中身が空になってしまい、改めて弟に視線を移す。一松の意図は分からないから、俺は慎重に言葉を選びながら静寂を破った。
「俺は、お前が言いたくないなら聞かない。話したくなったらいつでも言ってくれればいい。弟の頼みくらい聞いてやるのが兄ってもんなんだから、頼れよ」
弟、と言った瞬間、一松の肩が震えた気がした。一瞬のことだったので錯覚かもしれないが。
それでも一松は顔を上げてくれなかった。当然かと思いつつも少し寂しい。二人分のマグカップを手に席を立つ。
「じゃあさ」
不意に背後から声を投げかけられる。意外だった。すぐに振り向きたかったが、背中で次の言葉を待った。
「カラ松兄さん、一緒に寝てよ」
俺のことを兄さんと呼ぶのは久々に聞いたかもしれない。嬉しい。一松に頼られたことも、兄さんと呼んでくれたことも。思いがけず目頭が熱くなる。いやいや俺が泣いてる場合じゃない。
「いつも一緒に寝てるだろ?」
涙目になってるのに気づかれないように背を向けたまま言葉を返す。
「そうじゃなくて」
言い澱んだ言葉の続きを聞こうと振り返る。一松は視線を泳がせていて、何を言うのか考えあぐねているようだった。
「何でもない、忘れて。ホットミルクありがとう。おやすみ」
何も反応できないまま一松は足早に部屋へ戻ってしまった。せっかく頼ってくれたのに、何もできなかった自分に後からじわじわと腹が立ってきた。
一松はどういう意味で一緒に寝て、と言ったのだろうか。いつも隣で寝ているがそういうことではないらしい。何だろう。考えながら俺も部屋へ戻る。階段を上がり襖に手をかけた瞬間、ぱっと思い至った。一松はもしかして甘えたかったんじゃないだろうか!
布団に潜り込んでまだ起きているであろう一松に声を掛ける。無言でごろりと一松がこちらを向いた。
「一緒に寝ようか」
腕を広げて一松がおさまる分のスペースを空ける。一瞬空気が固まった。あれ、俺またやっちゃったのか。どう謝ろうか考え始めると、胸にドッと衝撃を受けた。ぐ、と思わず呻き声が漏れる。どうやら正解だったらしい。
「そうだ、眠れないなら子守唄でも歌おうか」
「黙って」
子守唄は余計だったらしい。素直に謝ると一松は胸に頬を摺り寄せてきた。猫みたいで可愛らしい。子どもをあやすようにとんとんと背中を叩く。子ども扱いするのはダメかと思い直して一松の様子を窺うと、どれが功を奏したのかうとうととしていた。
「おやすみ、一松」
良い夢を。そう願って、一松に囁いた。返事は返ってこなかったが規則正しい呼吸が何よりの返事だった。
これから彼が憂いなく眠れてくれればいい。そのために一肌でも二肌でも脱ごうじゃないか。一松を抱き締める腕に力が入った。