眠れない。
何も今に始まったことじゃない。こういう全く寝付けない夜は時々あった。いつも人と距離をとって抑えている分、大声を上げたくなるほどの自己承認欲求が全身から噴き出してくる。褒められたい、認められたい、愛されたい。しかし、そんな他者に依存してることに嫌気が差す。あまりの自己嫌悪に頭の中で自分を殺す。そうすると喪失感と引き換えに無意識の世界に落ちることができる。眠れない夜はいつもそうして朝を迎えてきた。
でも、自分の中の自分を殺すたびに眠れない夜が増えていった。
「一松兄さん、クマひっどいよ?昨日は寝れなかったの?」
朝起きてすぐ末弟のトド松に心配された。「別に何でもない」と素っ気なく返すと、理由を詮索する気はないのかあっさりと引き下がった。
「俺さ、時々兄さんが寝れてないのは知ってたよ。でも、最近頻繁になってるよね」
洞察力の鋭い弟はさらりと続けた。俺は返す言葉が見つからず、黙ってトド松を見つめた。
「あれ、気づかれてないと思ってた?他の兄さん達は知らないけど、俺は気づいてたよ。寝れてないときの一松兄さん、人殺しそうな顔してるからすぐわかるもん」
「……そう」
「あ、ホットミルクを飲むといいって聞いたことあるから試してみたら?」
「そうする。心配かけて悪かったな」
トド松はスマートフォンを扱う手を止め「一松兄さんが素直だなんて明日は雪?」と目を丸くした。
「何、その反応。俺だって心配されたら礼くらい言うよ」
改めて素直に言うのも恥ずかしくなって、タイミング良く寄ってきた猫に視線を逸らした。トド松が満足そうに笑ったのは顔を見なくても伝わってきた。
いつものように猫を抱きかかえると、するりと猫は懐に入り込んで丸くなった。随分と懐かれたもんだ。少し高めの体温に意識が徐々に遠ざかっていく。
「あれ、一松だけか」
どれくらい時間が経っただろうか。微睡みの中で兄弟の誰かの声が聞こえた。まだ体はぽかぽかと温かく、自分以外の体温の存在を感じる。。猫がいるなら時間はそんなに経っていないはずだ。瞼を上げることすら億劫で、意識もゆらゆらと夢現を彷徨っている。
「こんなところで寝ると風邪ひくぞ」
肩を揺すられた感じがする。ん、と唸って反応を返す。もう少しこのまま寝かせてくれ。俺は昨日眠れていないんだ。
俺の無言の訴えが効いたのか揺すられる感覚は消えた。
しばらくすると全身が温かくなった。「ほら、毛布持ってきたぞ」という声でこの温かさの理由が分かった。
「なあ一松、何か悩みでもあるなら、俺じゃなくてもいい、兄弟を頼れよ」
頭に何か触れた感覚がした。撫でられたと思ったと同時に、ようやくこの手がカラ松兄さんのものだと気づいた。ああ、全く余計なことを。
眠れない理由が自己嫌悪の他に存在していることを、俺は自分で気づいていた。でも、それを自覚したくなくて無意識のうちに蓋をしていた。
自分を殺す回数が増えた。俺の顔で、俺の声で、「俺は愛されたい」と嘆いてくる。「いい加減自覚したらどうだ」と罵ってくる。毎日自分と同じ顔を見てるんだ。妙にリアルで、余計に傷つく。
今夜も眠れそうにない。
静かに息を吐いて寝がえりをうつ。最悪なことに隣で寝ているカラ松と向き合う形になった。本当に最悪だ。自分と同じ顔した次男の寝顔は能天気なもので、その間抜けな顔にカッと頭に血が上った。
俺は寝れないっていうのに、平和な顔して寝やがって。ムカつく。イライラする。自己愛旺盛なお前に俺の気持ちなんて分かるわけない。俺のことを分かった風なクチ聞いて、俺をこれ以上苦しめないでくれ!お前だってカラっぽなくせに。俺と同じように自分の世界しかないくせに!どこまでも自信過剰なところがムカつく。見ててイライラする。そんなに自分の顔が好きなら、俺のことを信じてるって言うなら、そのお前と同じ顔の俺も愛してくれよ!
――愛してくれ?
ぐらぐらと煮えたぎる感情の中で、閉じた蓋が開いてしまった。ああ、もうだめだ。自分で気づいたときには限界だった。ぼたりと、俺とカラ松兄さんの間に染みができた。ぱたぱたと増える染みの数に、「あ、俺泣いてるんだ」と冷静に気付いた。それでも染みの数は止まらないし、血しぶきのように噴き出した感情が止まらない。
俺は、自分には無い熱さを持っている兄に、俺と同じ自分の世界に籠っているこの愚兄にこそ、愛されたかった。他の兄弟じゃだめだった。
こんな感情、気づきたくなかった。蓋をしたままでいたかった。後悔と、それでもとめどなく噴き出してくる慕情に涙が止まらなかった。
あの夜以降、眠れなくなる頻度も程度もひどくなった。自分を何度殺しても、寝付けなくなった。一晩で自分を殺した回数は両手でも足りないくらいになった。
このままではさすがにまずい。
隣で寝る兄弟たちを起こさないように台所へ抜ける。深夜ともあれば寒い。布団と兄弟の体温で温まった体から板張りの廊下へ熱が逃げていく。
「……ホットミルクってどうやって作るっけ」
牛乳パックを手に取って気づく。トド松が簡単につくる方法があると言っていた気がするが全く思い出せない。確か鍋に火をかけなくてもできると言っていたはず……。
「電子レンジで温めればいいだろ」
突然背後から声がして、肩が跳ねた。思わず牛乳パックを握る手に力がこもる。早鐘のように鳴る心臓を気づかれないように振り向く。
「げ」
一番見つかりたくない相手だった。
「カラ松、なんでいんの」
あくまで平静を装う。眠れない原因はおろか、寝れていないことすら気づかれたくなかった相手だ。
「フッ、闇の世界に呼ばれたんだ。俺は暗闇に愛され――」
「そういうのいいから」
ぴしゃりと言い放つと大人しくなった。若干涙目に見えたが、松野家次男の顔に戻った。そのまま、握りつぶしかけていた牛乳パックを俺の手から抜き取った。
「一松、ホットミルクは電子レンジでも作れるんだぜ」
戸棚から俺のマグカップを取って、兄の顔をして声をかける。
「だから、なんでここにいんの」
電子レンジでマグカップが回っている。カラ松はなぜか自分の分の牛乳を注いでいた。
「なんで、って……、そりゃお前が心配だったからに決まってるじゃないか」
それ以外に理由があるのか、とでも言うような表情に返す言葉がなかった。バカがつくほどお人好しだ。きっと今、泣いて縋ったら受け入れてくれるだろう。目の奥が熱くなる。いや、だめだ。ここで泣いたらだめだ。
「ほら、とりあえず飲め」
目の前に置かれたマグカップから湯気が立ち上る。涙目になっているのを悟られたくなくて、じっと手の中のマグカップを見つめた。カラ松も何も言わない。電子レンジの稼働音だけが聞こえる。
「聞かないの」
ぽつりと言葉が口から零れた。
「え?」
「聞かないの?俺が、ここにいる理由」
「……聞いてほしいのか、一松」
確認するように名前を呼ばれる。そんな声で俺を、俺なんかを呼ぶなよ。もっと呼ばれたくて仕方なくなる。ああ、なんて不毛な感情を抱いてしまったんだ。
聞かれたいのか、聞かれたくないのか自分でも分からなくて、黙ってマグカップに口をつけた。じんわりと身体の内側が温まっていく。なんとなく眠れそうな気がした。
「俺はお前が言いたくないなら聞かない。話したくなったらいつでも言ってくれればいい」
自分に向かう視線を感じる。顔が上げられない。顔を上げれば、真剣な眼差しを正面から受け止めなければいけない。
「弟の頼みくらい聞いてやるのが兄ってもんなんだから、頼れよ」
飲みほした二人分のマグカップを片付ける背中に、ようやく顔を上げられた。
「じゃあさ、……カラ松兄さん、一緒に寝てよ」
顔が見えない今なら言える気がした。俺より少し大きく感じる背中がぴくりと動いた。
「いつも一緒に寝てるだろ?」
「そうじゃなくて……その、」
何て言えばいいんだ。抱き締めて寝てくれ?恥ずかしすぎて言えるわけない。少しくらい察してくれよ、バカ兄さん。
「……何でもない、忘れて。ホットミルクありがとう」
おやすみ、とだけ告げて先に布団に潜る。少ししてカラ松が戻ってきたのを背中で感じた。
「一松、まだ起きてるだろ」
他の兄弟を起こさないようにカラ松がそっと囁く。返事の代わりに体勢を変え、カラ松と向き合う。
「一緒に寝ようか」
腕を広げて、まるでそこにおさまれと言わんばかりの空気を感じる。意図が伝わってた気恥ずかしさと嬉しさと、兄貴面された苛立ちとかごちゃ混ぜになって乱暴にそのスペースにおさまった。勢いよく突っ込んだせいか、息を飲んだ音がした。そんなことどうだっていいけど。
「そうだ、眠れないなら子守唄でも歌おうか」
「黙って」
「ごめん」
カラ松兄さんの胸の中にすっぽりおさまって、久しぶりに穏やかな眠気が襲ってきた。規則正しい心音が心地いい。子守唄を断念したカラ松兄さんはその心音に呼応するように俺の背中を叩いた。
「おやすみ、一松」
優しい声が降ってくる。少しずつ意識が遠のく中で目頭が熱くなるのを感じた。
いつか、俺の中で殺された俺も、殺した俺自身もまとめて愛してもらえる日が来るのだろうか。そうなれば幸せなのに、と不毛な感情であることには目を瞑って、柔らかな眠りに落ちた。
一カラ未満。初めて書いたもの